熊野旅後記(1)~玉置神社の“悪魔祓い”の謎

熊野の旅を終えて、今後の旅につながる発見と、いくつかの謎が残った。それらは文章にするとかなりの量になるのは間違いないが、僕の中でも考えとしてまだまとまっていないので、一度に書こうとしてもうまく言語化できない。僕自身の頭の中も整理しながら順を追って書いていこう。まず最初の謎は、玉置神社の“悪魔祓い”について。

玉置神社は日本の神社としては極めて珍しい“悪魔祓い”を行う。僕は今回の旅で実際に行ってみて初めてそのことを知ったのだが、ネットで検索すると悪魔退散のお札の画像やお祓い体験談もたくさん出てくる。社務所で悪魔退散のお札だけ授かることもできる。僕はちょっと気がかりな事があってこのお札を頂いてはこなかった。気がかりと言ってもその時点ではまだ言葉として説明できる類ではなく、直感的にかすかに感じた違和感だった。旅から帰宅後、この悪魔払いに対するかすかな違和感について考察してみると、一つの矛盾と言うか、明らかにすべき疑問点がある事に気が付いた。

その違和感というのは、簡単に言えば日本人の感性に悪魔という観念は似つかわしくないのではないかという点にある。神と悪魔、天国と地獄という善悪二元論的な観念は、主に国家が恐怖という人の感情を利用して民衆をうまくコントロールするための道具として生み出されたものに過ぎないと僕は考えている。「○○を信じないと地獄に落ちる」とか「○○をすると悪魔にとりつかれる」といった風に。これらを僕は“偽宗教”と呼んでいる。強いて言うなら、そんな偽宗教を盲目的に信じて従う人間の心、そしてそれを利用する側の人間の心にこそ“悪魔”は宿る。

それに対し、日本人古来の自然信仰は、神とは恵みを与えてくれると同時に天変地異や疫病などの災いごとも司る存在ととらえていたはず。試練を人間に与える厳しい一面も含めての神が、日本人の神のイメージであったように思う。日本人は、神の恩恵も災いも同様に畏れ敬った。その日本人が“悪魔退散”と言う時、これは神に退散しろと言っているのにも等しい。古い歴史があるとされ、日本人の信仰とも深い関係があるはずの玉置神社が“悪魔祓い”を行っているという点に、僕はまず違和感を感じた。もちろんこれだけではまったく論理的ではない。ここからが考察の部分になるが、その前にいくつかの前提知識が必要となる。

国之常立神

玉置神社の祭神の筆頭である国之常立神とはどのような神か。Wikipediaにはこのように書かれている。

天地開闢の際に出現した神である。『日本書紀』本文では、国常立尊を最初に現れた神としており、「純男(陽気のみを受けて生まれた神で、全く陰気を受けない純粋な男性)」の神であると記している。他の一書においても、最初か2番目に現れた神となっている。『古事記』においては神世七代の最初に現れた神で、別天津神の最後の天之常立神(あめのとこたちのかみ)と対を為し、独神(性別のない神)であり、姿を現さなかったと記される。
Wikipedia – 国之常立神

ここでは「国之常立神とは天地開闢に関わるとされる、日本神話において最も重要な神のひとり」とだけ覚えておいてもらえればかまわない。

大本神諭と日月神示

神道を語る上で避けては通れないほど重要な書物と個人的に位置づけている、“大本神諭”と“日月神示”という二つの天啓の書がある。このブログ内でもたびたび引用しているが、そもそもそれがどういうものかはまだ書いたことがなかった。この二つは今回の悪魔祓いの謎の件も含めて今後の僕の探求とも深く関わってくることになると思うので、ここで一度しっかりと説明しておきたい。

神道系団体「大本」の開祖、出口直(なお)は、天保の大飢饉のさなか京都府綾部に生まれ、極貧生活を送るだけのごく普通の女性であった。明治25年(1892年)2月3日、なおは突然神がかり状態になった。身体が重くなり、上下に揺れ、自分の意思とは無関係に腹の底から威厳のある大きな声が発せられた。いくら声を抑えようと思っても抑えられない。その第一声は次のようなものだった。

「三千世界一度に開く梅の花、艮(うしとら)の金神の世に成りたぞよ。
日本は神道、神が構わな行けぬ国であるぞよ。
外国は獣類(けもの)の世、強いもの勝ちの、悪魔ばかりの国であるぞよ。
日本も獣の世になりておるぞよ。
外国人にばかされて、尻の毛まで抜かれておりても、まだ目が覚めん暗がりの世になりておるぞよ。
用意をなされよ。
この世は全然(さっぱり)、新つの世(さらつのよ)に替えてしまうぞよ。
三千世界の大洗濯、大掃除をいたして天下泰平に世を治めて、万古末代続く神国の世にいたすぞよ。
神の申したことは、一分一厘違わんぞよ。毛筋の横幅ほども間違いはないぞよ。これが違うたら、神はこの世におらんぞよ。
天理、金光、黒住、妙霊、先走り、とどめに艮の金神が現れて、世の立替をいたすぞよ。」

この神がかり現象は昼も夜も絶え間なく起こり、なおを悩ませたが、次第にあきらめ、言葉を発し続けた。近所では「なおさんは気が触れてしまった」と噂になった。「艮の金神」とは、日本に古くから伝わる陰陽道の言葉で、艮は鬼門の方角(東北)を、金神は祟り神を意味する。自らを鬼門の方角の祟り神、すなわち悪霊と名乗るこの神の正体を見分けるものはどこにもいなかった。

その翌年、綾部で原因不明の火事が起きたとき、なおが「よき目ざましもあるぞよ。また悪しき目ざましもあるから、世界のことを見て改心いたされよ。いまのうちに改心いたさねば、どこに飛び火がいたそうも知れんぞよ」と大声で叫んでいたため、放火の容疑をかけられて留置場に入れられてしまった。その後、放火の真犯人が見つかって無事なおは釈放された。
「誤解を招くのでもう叫ぶのはやめてほしい」となおが神に頼むと、神は文字を書きだした。なお自身は無学でひらがなさえ読み書きできなかったが、神がなおの手を動かして文字を書かせた。最初は柱に釘で文字を刻み、やがて半紙に筆で記すようになった。この自動筆記を「お筆先」と呼ぶ。お筆先はひらがなと漢数字だけで記されていた。自動筆記はなおが死を迎えるまでの27年間続き、最終的には半紙20万枚に及ぶ膨大な神典となった。

最初はなおを馬鹿にしていた人たちも、なおが日清戦争の勃発を予言したり、病人を拝むと不思議と治ってしまうことからやがて驚きと尊敬の目で見るようになり、信者を持つようになった。その後は暫定的に金光教の傘下で活動していたが、徐々に方針の違いが明らかになり、独立を希望すると共に自らに懸かった神の正体を審神(さにわ。神がかり状態がどのような神によるものかを審理・判断する行為)する者を待っていた。
明治31年10月、運命に導かれるように、審神の能力と知識に長けた、上田喜三郎と名乗る一人の青年がなおの元へやってきた。当初なおは喜三郎に不信感を抱き物別れに終わったが、お筆先に「「神の仕組がしてあることであるから、上田と申すものが出てきたならば、そこを塩梅ようとりもちて、腹を合わして致さぬと、金光殿にもたれておりたら、ものごとが遅くなり間に合わぬぞよ」と出るようになった事から、翌年の7月、再び喜三郎を迎え入れることになった。喜三郎はなおに掛かった神「艮の金神」を、自身の祖神でもある「国之常立神」であると審神した。喜三郎は出口王仁三郎と名を変え、なおと共に新宗教「大本」の二大教祖の一人となった。喜三郎はひらがなばかりで読みにくかったお筆先に漢字をあてて句読点を付け、読みやすくして「大本神諭」として発表した。
教団としての大本は、なおの死後も信者を増やし続け、最盛期には30万人を超えた。大本の教義の中に、為政者の“われよし” “つよいものがち”をきびしく批判する要素を含み、特に立て替え・立て直しは革命思想と誤解されたことから、政府から激しい弾圧を受け、一時壊滅に追い込まれた(第一次・第二次大本事件)。

それからしばらく経った昭和19年(1944年)6月10日。神典研究家の岡本天明が千葉県の麻賀多神社を参拝し社務所で休んでいた時、突然右腕に激痛が走り、なおのお筆先と同じように自動書記が始まった。これが後に「日月神示」と呼ばれる神示で、天明の自動書記はその後17年間続いた。原文は漢数字と記号、絵などで記述され非常に難解な内容だったため書記した天明自身にも最初はほとんど理解できなかったが、仲間の研究家らの協力で少しずつ解読が進んだ。原文を解読して漢字仮名交じりの文章に書き直されたものは、「ひふみ神示」または「一二三神示」とも呼ばれる。日月神示をおろした神も大本神諭と同じ「国之常立神」だとされ、従って日月神示は大本神諭の続編という見方もできる。

悪魔祓いを始めた崇神天皇とは何者か

玉置山信仰と、ご神体である“玉石”の信仰は有史以前のはるか昔から存在すると伝えられているが、玉置神社の創建はそれよりずっと後の事で、第十代天皇である崇神天皇が創建したとされている。玉置神社の社伝にも「崇神天皇が天下安泰や悪魔退散を祈願され創建された」と書かれている。これをそのまま読めば、悪魔祓いを始めたのは崇神天皇という事になる。崇神天皇は紀元3世紀から4世紀初めにかけて実在した人物だという説が有力である。

この崇神天皇以前の初代から九代までの天皇は、実在を裏付ける記録が残っていない。その理由には二つの可能性が考えられる。ひとつは、本当に実在せず崇神天皇の時代に創作された可能性、つまり権威付けのために歴代天皇の歴史を創作したものであり、実際には「崇神天皇が初代」である可能性。
もう一つは、歴代天皇は実在したが、なんらかの理由により崇神天皇の代から以前の歴史が抹消あるいは改変された可能性。その理由としては、崇神天皇が大陸から渡ってきて武力により日本を制圧した人物であるためということが考えられる。国民から神として崇められるべき崇神天皇が実はよそからやってきて先住の“日本人”を虐殺し国を乗っ取った張本人であるという歴史は、その後の国を治めるためには都合が悪いからである。

どちらの可能性が真実かはわからないが、現在入手できる資料を読んだ限りでは後者(3世紀頃に大陸からやってきて日本を武力制圧した人物)ではないかなという気はする。この部分は僕も確実にそうだと言いきれる自信がないのでなにか情報を持っている人がいたらぜひコメントで教えて欲しい。今回は後者を前提として話を進める。

玉置神社において悪魔とは何を指すか

僕が感じた違和感を言語化するための前提はひとまずこれで揃った。

・玉置神社の主祭神は国之常立神。
・その玉置神社を創建し、悪魔祓いを始めたのは崇神天皇。
・大本神諭(お筆先)をなおに書かせた神は、自らを艮の金神=鬼門の方角の祟り神=悪霊と名乗った。
・艮の金神は、王仁三郎の審神によれば国之常立神であった。

ここに一つの矛盾があることに気付く。玉置神社の主祭神である国之常立神は、大本神諭では自らを悪霊と名乗った。ということは、玉置神社が祓う悪魔とは国之常立神そのものということになる。これはどういう事だろうか。
この理由を崇神天皇とその配下による、国之常立神を封印するための呪詛と考えると筋が通る。かつて先住の日本人がもっとも重要な神と位置付けていた国之常立神を、玉置神社での悪魔祓いによって日本人自身に封印させる狙いがあったと推測できる。

この推測を補強する話として、出口王仁三郎が残した次のような言葉がある。

『超訳 霊界物語―出口王仁三郎の「世界を言向け和す」指南書』(P89)より

「節分」の時期にまく豆は煎った大豆だが、煎った豆には芽が出ない。これは「もし煎った豆から芽が出るようなことがあったら、表に出てきてもいいよ」という呪詛なのである。また、「節分の夜」に、「柊鰯(ひいらぎいわし)」と言って、柊の小枝と、鰯の頭を玄関の門口に吊るす習慣がある。これは柊の葉のトゲで、艮の金神の目を刺し、鰯の臭いで艮の金神が家の中に入って来られないようにするための呪詛である。

他にもまだある。「五節句」に行なう風習はみなそうだ。
まず「正月」。
門の前に立てる門松は、艮の金神の墓標である。赤白の鏡餅は、艮の金神の骨と肉を表す。飾り物の鞠(まり)は、艮の金神の頭、弓の的は、艮の金神の眼を表している。

また、3月3日の「桃の節句」では、蓬(よもぎ)の草餅を食べるが、あれは艮の金神の皮膚である。
5月5日の「菖蒲(しょうぶ)の節句」で食べる粽(ちまき)は、艮の金神のひげと髪である。
7月7日の「七夕」には素麺(そうめん)を食べるが、あれは艮の金神の体の筋を表す。
9月9日の「菊の節句」では、菊の酒(菊の花を浸した日本酒)を飲むが、あれは艮の金神の血である。

これらの風習は魔除けの呪詛が起源になっているのだが、その除こうとしている魔というのが、「鬼=艮の金神」なのだ。その艮の金神の神示から誕生した大本では、節分の豆まきでは、当然ながら「鬼は外」とは言わない。「鬼は内!福は内!」と言って豆をまく。また、「注連縄」も使わない。注連縄は国祖(艮の金神)が表に出てこられないように、縄を張り巡らした結界が起源だからだ。神社などでは、ご神木の幹に必ずと言っていいほど注連縄が張られているが、大本のご神木には注連縄がない。
このように、国祖を封じ込めるための数々の呪詛が、日本の文化の中に風習として伝わっているのだ。

このやり方はやはり中国大陸系のニオイがプンプンする。もし本当に玉置神社の悪魔祓いが国之常立神を封印するための呪詛だとすれば、玉置神社を参拝する際の心構えについても改めて考えてみたいところである。ネットでは「豆まきが呪詛」という話はわりと広く広まっているようだが、玉置神社の悪魔祓いがそうだという主張はひとつも見つからなかった。もしここに議論の余地があるならぜひコメントで教えてもらいたい。

ただ、この推理を前提として考えてみると、さらにもうひとつの疑問が沸く。天地開闢に関わる偉大な神が、人間ごときにそう簡単に封印されるものだろうか?という疑問である。僕はこの疑問の答えについてはまだはっきりとは言語化できないが、おぼろげに、こうなんじゃないかなというイメージはある。国之常立神は人間に気付きを与えるために自ら進んで「封印された悪神」となったのではないか、という可能性である。

日月神示から言葉を引用しよう。

「悪霊自身は自身を悪と思うてないぞ」
「まことの善は悪に似ているぞ、まことの悪は善に似ているぞ、よく見分けなならんぞ、悪の大将は光り輝いているのざぞ」
「人の心から悪を取り除かねば神に通じないと教へているが、それは段階の低い教であるぞ」
「大神は大歓喜であるから悪をも抱き参らせているのであるぞ。抱き参らす人の心に、マコトの不動の天国くるぞ。抱き参らせば悪は悪ならずと申してあろうが」
「悪を悪と見るのが悪」
「悪も御役であるぞ。この道理よく腹に入れて下されよ」
「罪を憎んでその人を憎まずとは悪のやり方、神のやり方はその罪をも憎まず」
「悪も神の御働きと申すもの、悪にくむこと、悪ぢゃ。善にくむより尚悪い。何故に判らんのか」

年越し熊野旅(5)~玉石社と玉置の神~

冬、家で布団の中で寝ているときには外気温の変化を実感することはない。車中泊していると分単位で気温が下がっていく事が手に取るようにわかるから面白い。太陽が西の空に沈んでから再び東の空に顔を出すまで気温は下がり続ける。よく晴れて雲も無いから放射冷却現象で冷え込みがより厳しい。防寒対策はしっかりしてきたつもりだったけどそれでも寒かった。結局寒すぎてよく眠れず寝たり起きたりを繰り返していた。浅い眠りの中で、変わった夢を見た。僕が何かを盗んだ犯人(何を盗んだのかはわからない)になっているところからその夢ははじまる。目の前に厳しい顔をした人がいて「反省しなさい!」と大声で叱られた。しかし怖さはなくて、厳しいながらも暖かく諭してくれているという印象。そしてその人は筆で紙になにかを書きはじめた。多分字を書いているらしいのだが、何を書いているのかはわからない。

夢を見たのはその一回だけで、気が付いたらいつのまにか朝になっていた。

夕方仮眠をとっていたから睡眠不足ではないけど疲労感は取りきれなかった。窓だな。車の窓から外の冷気がダイレクトに伝わってくる。窓にも防寒処理を施せばもっとマシになるかもしれない。次に冬山で車中泊をする時は、ホームセンターで売っている「プチプチ」を買って窓の形に切り抜いて貼ってみよう。ただ人間として生まれたなら一度はこうして寒い思いをして自然の気温変化を肌で感じるという経験をしてみることもある意味では必要なことだと思う。-20度くらいの極寒の世界も一度体験してみたい(死なない程度に)。

元日の朝日の中、再び玉置の神域へ

昨晩は真っ暗で山の風景は何も見えなかった。改めて元日の朝日を浴びながら神社への道を進んでいく。杉の巨木が光を受けて幻想的だった。昨晩強風が吹いていたあたりは今朝は比較的穏やかな風に変わっていた。それでも“風の境界線”という気配は昨晩同様に感じられた。昨晩は地形がわからなかったが、見てみると切り込んだ谷がこちらにむかって狭くなっている。そこを通って加速した風が吹き上がってこのあたりだけに強い風が吹くみたいだ。

玉置神社

大峰山脈の南端に位置する標高1,076mの玉置山の山頂近くに鎮座し神武天皇御東征の途上として伝承されています。創立は紀元前三十七年第十代崇神天皇の御宇に王城火防鎮護と悪魔退散のため早玉神を奉祀したことに始まると伝えられています。古くより熊野から吉野に至る熊野・大峰修験の行場の一つとされ、平安時代には神仏混淆となり玉置三所権現または熊野三山の奥院と称せられ霊場として栄えました。江戸時代には別当寺高牟婁院が置かれていました。その後、慶応四年の神仏分離により神仏混淆を廃し以後玉置三所大神、更に玉置神社となり現在に至っています。境内には樹齢三千年と云われる神代杉を始め天然記念物に指定されている杉の巨樹が叢生し、平成十六年には「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に登録されました。
玉置神社公式サイト

玉置神社の本殿。国常立尊、イザナギ、イザナミの三神(三柱)が祀られ、明治6年に天照大御神と神武天皇が合祀された。ここは後で参ることにして、先に玉置山最高の神域である玉石社へと向かう。右手の道を進み、社務所の横を通って山頂に続く階段を上がっていく。

玉石社に近付くにつれ、明らかに山の雰囲気が変わってきた。15分ほど階段を登ると玉石社に着いた。

玉石社

古代、神武東征以前から熊野磐座信仰の一つとして崇められてきた玉石は、玉置神社本殿と玉置山頂上中程に鎮座します。社殿がなくご神体の玉石に礼拝する古代の信仰様式を残しています。玉置神社の基となったのが、この玉石社と伝えられ、玉石に宝珠や神宝を鎮めて祈願したと伝わっています。大峯修験道では、玉石社を聖地と崇め、本殿に先んじて礼拝するのが習わしとなっています。

ここに祀られている神は大己貴尊(出雲大社の大国主命の別名)。三本の巨木の中心にご神体の玉石がある。地中に埋まっている部分は相当に大きいと言い伝えられているが実際にどれくらいあるのかはおそらく誰も知らない。花の窟神社では過去トップクラスの異世界感を感じたので、ここ玉石社はそれを上回るかと思っていた。ところが実際に玉石社の前に立ってみるととても静かでまるで神が寝静まっているかのような印象だった。それは玉置神社本殿でも同様。天河神社のような“不在”というような感じでもないのだが・・・。なにか奇妙な感じがした。それはそれとして、この“三本の巨木の中心に玉石”という自然が作り出したご神体の様式を見ながら僕はしばらくある考え事をしていた。その件はかなり長い話になるのでこの熊野の旅レポを書き終わったら書くことにしよう。玉石社の参拝を終えると、右手からさらに上に続く階段を上る。昨日からの疲れがだいぶ足に来ていた。ゆっくりと時間をかけて上り、ほどなく玉置山山頂に到着した。

白い霜が朝日を反射してキラキラと輝いていた。山頂付近には現代人の手が入っているせいだろうか。神聖な気配はなく再びどこにでもある山という印象を受ける。

「宝冠の森 50分」の立て札がある。ここまで来たらこの宝冠の森にも是非とも行ってみたかったのだが、家に帰る時間を考えると無理だった。また次の機会に行きたいと思う。宝冠の森へ続く道の左手にもう一本道があった。その道の先にあるものが気になり、少し歩いてみる事にした。そこにあったものは・・・。

電波塔。こんなものが建ったら当然神聖な気配など一瞬で吹き飛んでしまうよね。人口が増えれば土地や山林の開発も欠かせないという事は理解している。でもわざわざ歴史のある神の山のてっぺんに電波塔を建てる必要はあったのか?建設案が出たときに誰も反対しなかったのか?と非常に残念な気持ちになった。

産田神社で出会ったおじいさんの「昔は下から歩いて上るしかなかった」という言葉を思い出した。たしかに車道があれば誰でも簡単に玉置神社に来られる。しかしその開発によって、この聖山の精霊を追い払ってしまったのではないか。玉置神社から玉石社のところまで、杉の巨木とともに神域はたしかにいまも開発されずに残されている。けれどこれも考えてみれば傲慢な話だ。「ここからここは人間の領域。神様はこれだけあればいいよね。はいどうぞ」という考え方である。神の頭上に電波塔まで建ててしまうくらいである。自然や神を敬う気持ちがそこには微塵もない。

ろくな登山装備もないずっと昔は、玉置山参拝は文字通り命がけだったという。命をかけてでも絶対に行くんだと言う強い覚悟で望むべき神の山。「選ばれた人しかたどりつけない」という伝説はその頃に生まれたのだろう。いまはどうか?道ができて誰でも安全にレジャー感覚で簡単に来られるようになった。しかし玉置の神はそうして楽をして来た人には向き合ってくれない神なのかもしれない。僕が玉石社の大己貴尊も玉置神社の国常立尊も静かに寝静まっているのでは?という印象を受けたのも、そのためかもしれない。あの「反省しなさい」という夢はそのヒントなのだろうか。僕も道が出来る前の神秘の玉置山を一度この目で見て、そして自分の足で土を踏んで体感してみたかったけれど今と言う時代に生まれた以上はもうそれは叶わない。かつてはきっといたであろう山の精霊の気配はもうない。逆に今という時代に生まれた事に意味はあるのだろうか?

山頂から降りて社務所の付近まで来ると、初詣客が大勢いた。その人たちの横をすりぬけて玉置神社本殿で参拝をし、車に戻って時計を見ると10時を回っていた。日差しはポカポカと暖かく、夜の間に凍結した道もこの時間には解けていた。行きと同様なんの問題もなく山を降りることができた。2015年と2016年の年末年始はどちらも雪が降って玉置神社参拝客の事故が多発して大変だったらしい。
帰りに寄った道の駅でぜんざいが無料で頂けた。楽しかったと同時に玉置山で最後は気持ちが引き締まった、初めての熊野旅。