月と共に巡る伊勢志摩(3)〜伊雑宮

30日は午前中いっぱい雨の予報だったため、志摩方面の神社参拝は大晦日に行くつもりでしたが、外宮を出るとすぐ晴れてくれたので、予定を変えて志摩に行くことにしました。帰りが大晦日の夜になると積雪の心配もありましたしね。

消えた六芒星

かつて伊勢神宮の参道に並んでいた数百基もの石灯籠には六芒星が刻まれていました。この灯籠は昭和30年に「伊勢三宮奉賛献灯会」という団体が設置したものです。この団体は関西財界人らによって設立されたと言われていますが、どんな理由があって六芒星を刻んだのかは調べても情報が見つからず、わかりません。この団体は灯籠の設置後わずか数年で解散し、灯籠は管理者不在のまま放置され、老朽化して危険なことから、時が経つごとに撤去されたり新しい(六芒星のない)灯籠に交換されたりしてきました。
そして2018年、灯籠に路線バスが接触し、歩道を歩いていた男性に当たって死亡するという事故が起きます。それがきっかけで、全ての石灯籠が撤去されることになり、今は伊勢のどこを探しても六芒星を見ることはできません。この事故のニュースは今もネット上で読めます。
伊勢神宮周辺の石灯籠、全撤去が完了へ 直撃死亡事故で

気になるのは、消えた六芒星はこの伊勢神宮の石灯籠だけではない点です。「元伊勢」とも呼ばれる京都の籠神社。その奥宮、真名井神社の地中から掘り出された石碑にも、元々は六芒星が刻まれていました。それがなぜか三つ巴の紋で隠されています。また籠神社の絵馬にもかつては六芒星が描かれていましたが、現在は別の絵柄に変えられています。
伊勢神宮の灯籠は危険だからという理由で説明がつきますが、元々あった石碑の六芒星をわざわざ手間をかけてまで隠す合理的な理由はちょっと思い浮かばず、不思議に思います。
僕の神社巡りの原点、石巻山の祠にあった六芒星の鏡も、僕が初めて訪れた2014年以降、一度も目にしていません。

伊勢から車で30分。志摩国一宮、伊雑宮にやってきました。

新年を迎えるため神職が榊を新しいものに替えていました。

伊雑宮の正面にある石灯籠には今も、菊花紋の下にはっきりと六芒星が刻まれた石灯籠が現存しています。この灯籠も「伊勢三宮奉賛献灯会」と刻まれていたことから、かつて伊勢神宮にあった灯籠と同時期に同団体が設置したものと思われます。

今回は行きませんでしたが、伊雑宮から近い磯部神社にも同じ灯籠があります。「伊勢三宮奉賛献灯会」という団体名からしてそもそも謎があります。伊勢神宮は外宮と内宮の二宮なので「伊勢二宮奉賛献灯会」でなければおかしいはず。なぜ三宮なのか?
ここがどうも謎解きの重要なポイントになりそうです。

伊勢三宮とは何を意味するのか

かつて、伊雑宮を含むこの地一帯と周辺海域を治めていた「的矢氏」という豪族がありました。古墳群が発見されていることから、的矢氏の歴史は少なくとも古墳時代まで遡ることができます。室町時代になると、足利氏の室町幕府は後継者争いをするばかりで政りごとはほとんど何もせず、そのため国は荒れ、ついに戦国時代に突入します。力が全てのこの時代、織田信長の下で活躍した九鬼水軍で有名な九鬼氏の攻撃を受けて、的矢氏は滅ぼされました。
江戸時代になり、九鬼氏はこの磯部の地を神社領から武家領に変えることで田畑(石高)を増やし、5万5千石の鳥羽藩となりました。伊雑宮は神社領ではなくなったため幕府からの支援が得られなくなり、困窮します。伊雑宮に仕えていた神人たちは幕府や朝廷に上訴しますが、磯部が神社領に戻されると鳥羽藩の石高が減るため、戻されないよう鳥羽藩の働きかけもあったようです。

そこで神人たちは、1658年の朝廷への上訴で「伊雑宮は日本で最初のお宮であり、内宮と外宮はその次にできた。その伊雑宮が廃れることはあってはならない」という趣旨の上訴をしました。またその主張を裏付けるための物証として、1662年に「伊雑宮旧記」を朝廷に提出しています。そこには伊雑宮が真の日の宮であり、外宮はそれに付き従う月の宮、内宮は星の宮と書かれていました。これがのちに伊勢三宮説と呼ばれるものになります。

内宮・外宮の神人もこれには黙っておられず「伊雑宮旧記は偽書である」と主張します。朝廷は伊雑宮を内宮の別宮と位置付け、その上で存続支援することで問題解決を図ろうとしましたが、伊雑宮側はこの裁定にも反発し、47名の神人が当時の徳川将軍、家綱へ直訴するため夜中に江戸へ向かいます。が、結果は47名とも志摩へ帰ることを禁じられ追放されるという厳しいものでした。

それから約20年後の1679年、江戸のある書店から先代旧事本紀大成経(または神代皇代大成経)という書物が出版されます。聖徳太子と蘇我馬子が編纂したものが秘匿されていたものを、神道家の長野釆女と、潮音道海という僧が発見し、世に広めるため書店に持ち込み複製したものとされています。この大成経は、平安初期に書かれたとされる「先代旧事本紀」の原本ではないかと話題になり、多くの人に読まれました。

その噂を聞いた伊勢内宮の神人は、大成経に伊雑宮の主張を補強する内容が書かれていることに気がつき、これも伊雑宮が黒幕として仕組んだ偽書ではないかと江戸幕府に評議を求めました。天皇家(朝廷)の権威に支えられている江戸幕府としては、皇祖神・天照大神を祀る伊勢神宮をもっとも社格が高い社としていたため、大成経が偽書ではないとすると、幕府と朝廷の権威の失墜につながります。このことから、事実がどうであろうと幕府は大成経を偽書とせざるを得ませんでした。

こうして大成経は禁書にされ、出版に関わった長野釆女や潮音道海は処罰、「伊雑宮から賄賂を受け取って偽書を流布した罪人」と言う汚名を着せられます。また、首謀者とされた伊雑宮の神人、中村兵大夫は何者かに毒殺されました。こうしてようやく伊雑宮をめぐる一連の事件は、少なくとも表向きには沈静化しました。しかし一旦世に出た大成経は、明治・大正・昭和となってからも一部の人の間で密かに支持され続けました。

大成経事件に感じる違和感

こういう経緯からすると、伊勢三宮奉賛献灯会とは、伊雑宮の神人の子孫かまたはその支持者らによって作られた団体、と考えるのが自然ですね。

ただ、大成経が幕府によって偽書認定されたという事実をもってして、伊勢三宮説そのものを否定するのは論理の飛躍です。この一連の事件にはどこか違和感を覚えます。伊雑宮が本当に田舎の一神社に過ぎないなら、神人たちは伊雑宮存続にここまで命をかけた上訴に出るものでしょうか。

潮音道海は全国に二十数カ所の寺を開山し、63人の弟子を持った臨済宗の高僧でした。そのような大人物が、素性も知れない兵大夫から話を持ちかけられただけで、歴史書の改変という大悪事に手を染めるものだろうか。そんなことをすれば、僧としての立場を追われるだけでなく、厳しい処罰がくだされることなど、道海は百も承知の上だったでしょう。兵大夫らは、道海にその覚悟を決めさせるほどのすごい大金を用意したのだろうか?
そもそも財政的に困窮していたからこそ伊雑宮存続に動いた神人たちです。そんな彼らが大金を用意できたのか?この点にも矛盾があります。

歴史は常に勝者にとって都合の良い話が後世に伝わるもの。
「道海らはお金で買収され偽書を作った」という話に証拠はなく、伊勢神宮か鳥羽藩が伊雑宮と道海らの名を貶めるために流した嘘である可能性も決して否定はできません。

話はこれで終わりません。道海は、徳川綱吉の母、桂昌院からも絶大な支援を受けていました。その桂昌院の計らいなのでしょうか、道海の流罪が一度は決定したものの実際には刑は受けず、50日間の謹慎処分で済んでいます。ところが、なんと流罪免除となった後にも道海は「大成経は真正の古典である」と主張し続け、またそれをまとめた「大成経破文答釈」という書物を出版しています。ここでもまたお金のためとはとても思えない執念を感じます。

大成経出版の黒幕は、内宮が主張するように伊雑宮でまず間違いないでしょう。ただ、出版の経緯がなんであれ、大成経に書かれた内容がもし嘘偽りだとすれば、道海らにここまでの信念を抱かせることはなかったのではないかとも思います。道海らははたして伊雑宮の神人から何を見せられたのか・・・。

籠神社の旧絵馬

絵柄が変えられる前の籠神社の絵馬。右上に六芒星、その中に太陽と月が描かれています。この図柄はまるで伊勢三宮説を支持しているかのようです。

伊雑宮に見え隠れする「3」の聖数

これは伊雑宮に平安時代から伝わる、竹取神事の動画です。

「太一」と書かれた巨大なうちわが3度仰がれた後、引き倒されるという神事です。太一とは、伊勢神宮においては天照大神を指します。それが3度仰がれた後に倒される。これもまた何かを暗喩しているかのように思えます。

竹取と言えば、かぐや姫の竹取物語ですね。平安時代初期に書かれたとされ、作者は不明。そのストーリーには、普通に読んだだけでは気づかない程度に密かに、朝廷や権力者を忌む心が感じられます。そして竹取物語の中には不自然なほど3という数が多く登場します。

かぐや姫が竹の中で見つかった時の大きさは三寸。名付け親は三室戸齋部の秋田。
三ヶ月で大人に成長。美しい娘に育ったことを祝って三日間祝宴をした。
帝に求婚されてから三年後に月からの使者が迎えに来た。

作者はもしかしたら伊雑宮に関係する人物か、もしくはその支持者なのかも知れませんね。正面から「伊雑宮こそ日の宮である」と表明すると争いが生じることは確実なので、それとはわからない程度にさりげなく祭りや物語の中に伊雑宮の主張を散りばめた。そう仮定すると、大成経事件よりはるか以前、少なくとも平安時代から伊雑宮はすでに朝廷と伊勢両宮に対して反発心を抱いていたという事になります。その理由についての考察もしていきますが、長くなったのでここで一旦区切る事にします。

三と言えば、この地がある現在の県名も「三重」・・・。

月と共に巡る伊勢志摩(2)〜月夜見宮と豊受大神宮

早めに寝たからか、朝4:00に目が覚めた。窓の外を見ると当然ながらまだ真っ暗。雨も降っているようでした。二時間ほど時間を潰した後にホテルを出発。内宮には一度来たことがありますが、外宮の参拝は今回が初めてです。

泊まったホテルから徒歩15分、豊受大神宮(外宮)の別宮、月夜見宮。天照大神の弟神である月夜見尊を祀るとされています。木々に囲まれた社は7:00を過ぎてもなおまだ暗い。

この日がたまたま満月だったので、月つながりで参拝に来ました。内宮の別宮にも同じ読み方で漢字だけが違う「月讀宮」があります。祭神の月夜見尊(または月読命)は祀られる神社も少なく、謎の多い神さまです。社の左手には黒く焦げた楠があり、若干禍々しい雰囲気もありました。なんでも世界大戦の時の焼夷弾で焼けたそうです。この楠はなんだか写真に撮ってはいけない気がしたので写真なしです。

月夜見宮から歩くこと10分、続いて外宮を参拝。雨は小降りから霧雨に変わり、同時に参拝客の数も増えてきました。これでも昨年以前と比べると全然少ないんでしょうね。落ち着いてゆっくり参拝できるという意味ではありがたいのだけど。

外宮の初参拝を終えての感想は、素朴な、人に寄り添う神社という印象でした。内宮は外宮に比べるともう少し厳格な感じ。内宮に祀られる天照大神は女性神とされていますが、僕の印象はどちらかというと外宮が女性的で、内宮が男性的に思えます。

外宮を出ると一気に晴れ、濡れた道路に太陽光が反射していました。