Posts in Category: 旅日記

月と共に巡る伊勢志摩(5)〜かぶらこ岬

倭姫命旧跡

伊雑宮参拝を終えたあたりから風が強くなり、ホテルを出た時よりももっと寒く感じました。手袋をしていても手がかじかむほどです。寒波が近づいているのを実感します。伊雑宮に掲示されていた周辺地図を見ると、北に伸びる細い坂道を400mほど歩いたところに倭姫命旧跡という場所があると書かれていたので、そこに行ってみる事にしました。

遺跡は朽ちた楠と、割れた石の板でした。それを覆う屋根と言うか雨除け。
ああ、いいなあ。お金をかけたいかにもな社など無くても、ここの地元の人の「遺跡を守りたい」という純粋で素朴な気持ちがこの雨除けに見て取れます。見た目に立派な社殿を作り人を呼び集めることに熱心な神社で、ここはいいな、また来たいな、と思ったことはほとんどありません。

この写真を撮っている僕の背後に東屋があり、そこに楠と石についての説明書きがありました。
それによれば、大正末期、ここにあった大楠を原料に天然防虫剤を作るため切り倒して根本を掘り返した。するとこの石があらわれ、その下から鏡や勾玉が出てきてこれは倭姫の遺跡ではないかという話になった。ところがそれを知った伊勢内宮の関係者によってこれらの遺物は持ち去られ、穴は埋め戻された。そして官憲(今でいう警察)によって、ここで起きたことを語ることすらも禁じられてしまった。
とのことです。

大正末期というと今から100年ほど前ですかね。官憲に口封じされていたにも関わらずこの話が密かに現代まで伝えられ、その証として石と楠が失われず遺跡として守られているのはすごいことですね。持ち去られた鏡や勾玉はどこへ行ったんでしょうか。
(追記)宇治山田駅の近くにある神宮徴古館にあるようです。一般展示されているかどうかは行っていないのでわかりません。

東屋の北には伊佐波登美命鎮座地と刻まれた石碑と小さなお社がありました。

この倭姫命旧跡に来た時から急に太陽の光が暖かく感じ、ついさっきまで吹いていた強風もおさまって、まるで突然ここだけ小春日和になったように心地よくなりました。地形的に何か特別なものでもあるのかとあたりを見回してしまったほどです。強いて言えば南側に高い木が無くて太陽光が当たりやすかったことくらいですね。でも単にそれだけとは思えないくらいぽかぽかして居心地が良かったです。
この感じ・・・体だけでなく心も暖かくなる感じ。2016年の年末詣で行った熊野の花窟神社に似ているなと思いました。

お社に祀られていたのは、伊佐波登美命(イザワトミ)、イザナギ、イザナミの三柱。うーん、そうか。このブログで過去何度も書いているように、僕が神社や聖地とされる場所で居心地が良いとか神気を感じる時、どういうわけか、そこには必ずと言っていいほどイザナギ・イザナミの名があるのです。理由は僕にもわかりません。それがここでもまた。
この場所に来るまで夫婦神が祀られていることを僕は知りませんでした。

あまりの心地よさに、このお社を参拝してからそのまま動かず30分くらいぼーっと突っ立っていました。すぐ近くに民家があるので、一応、まわりに人の目がないか時々確認はしましたが、もし見られていたら不審者がいると思われたでしょうね(笑)

伊佐波登美命の神名にある「登美」の文字からは出雲王家の富家が想起されます。

「富」の言葉は古代出雲では、トビと発音した。それでヤマトでは、富家に「登美」の字が当てられた。
(斎木雲州「出雲と蘇我王国」P.36より)

伊佐波登美命は、富家に関係しているんでしょうか。伊雑宮の現在の由緒書きには次のように書かれています。

当宮の創立は、約2000年前の第11代垂仁天皇の御代です。皇大神宮ご鎮座の後、倭姫命(やまとひめのみこと)が御贄地(みにえどころ=皇大神宮へ奉る御供物を採る所)をお定めになるため、志摩国をご巡行の際に、伊佐波登美命(いざわとみのみこと)が奉迎して、この地に当宮を創建して、皇大御神の御魂をおまつりしたと伝えられています。

伊佐波登美命や倭姫命についての記録はほとんど無く、よくわかっていないようです。僕としても、富家に関係している?と推察する以外に特筆する情報は特に持っていません。
もし今後何か新しいことがわかったらまた書いていきます。

時間はおよそ11時。少し早めの昼食をとることにしました。新型コロナ対策で密を避けるためです。と言うのはウソで、僕は生来の「密嫌い」の人なので、新型コロナ以前から外食は大体時間をずらすか、どこも混んでいたらテイクアウトで食べることがほとんどなのでした。連れがいる時は我慢しますけどね。
志摩に来たら当然、海鮮です。適当なお店に入って伊勢海老入りの海鮮丼を注文。食べてみると、あれ?・・・普通。新鮮な魚介の甘味のある美味しさはあまり感じられませんでした。まずくはありませんが、熊野で食べた海鮮丼の方がずっと美味しかったですね。伊勢海老も別に・・・。お店がハズレだったんだろうか。

伊射波神社

そこから北東の鳥羽市の海岸沿いにある伊射波神社を目指しました。実はこの伊射波神社は、伊雑宮と共に志摩国一宮に指定されています。一宮が二つあるなんて奇妙ですよね。それだけこの地の信仰の歴史は複雑な経緯があり、何とか体裁を取り繕った末の苦肉の策が、この「ダブル一宮」だったようです。

駐車場に着きました。ここからは徒歩で1.3km。

美しい竹林を通り抜け。

最初の700mは平坦な舗装路を歩きますが、そこから先はちょっとした登山になります。

登山になるとは想像していなくて思いっきり冬の服装のまま来てしまったので途中から暑くてたまらなくなりました。服装には要注意ですね。特に最後の300mの石階段はちょっとキツかったです。

伊射波神社。この拝殿は比較的新しそうでした。頭上では強風に煽られた木々がゴウゴウと唸っています。

安楽島、加布良古(かぶらこ)岬のほぼ中央に位置する志摩国の一ノ宮で、祭神は天照大御神に使えたとされる稚日女尊 (わかひめのみこと)、倭姫命が神宮の御贄を奉る地を探して志摩国を訪れた際に出迎えたとされる伊佐波登美命 (いざわとみのみこと)天日別命(あめのひわけのみこと)の子とされる玉柱屋姫命 (たまはしらやひめのみこと)、水の神様、狭依姫命 (さよりひめのみこと)。
 鳥羽三女神の一社で、縁結びの神様として知られ、地元では「加布良古さん」と親しみを込めて呼ばれている。
 昭和初期までは浜まで船で来て参拝していたといい、海に向かって立つ鳥居はその名残。今でも、沖を通る船の上から、豊漁や海上安全を願い、鳥居に向かって手を合わせる漁師も多い。
鳥羽図鑑

この神社は周囲を全て木々の葉に取り囲まれて海は見えませんが、一箇所だけ葉がない空間があってそこからだけは海が見えます。この場所は「奇跡の小窓」と呼ばれています。

参拝を終えて山を降り、海に向かって立つ鳥居の手前に座って遠くをしばし眺めていました。

ごみが一つも落ちていません。こんなに綺麗な海岸は初めて見たかも。本当に大切に守られている聖地といった感じがします。

伊射波は「イザワ」と読みますが、伊射を「イザ」と読むなら伊射波神社は「イザナミ神社」と読めなくもないですね。
これはたぶん偶然です。しかしこの偶然が、面白い事実の発見に繋がりました。続く。

月と共に巡る伊勢志摩(4)〜六芒星についての考察

伊勢三宮奉賛献灯会はなぜ六芒星を灯籠に刻んだのか。籠神社の旧絵馬の六芒星や、真名井神社の石碑の六芒星と関連性はあるのか。六芒星というとまずユダヤ・イスラエルの六芒星が頭に思い浮かびますが、この伊勢の六芒星に関してはユダヤと直接の関係は無いような気がします。間接的には関係あるかもしれませんし、それも無いかもしれません。

ユダヤではないと仮定するとして、この六芒星はなにを意味しているのか。

全72巻からなる先代旧事本紀大成経。そのうちの一冊に「神代皇代大成経序」という書があります。その11ページ目から12ページ目あたりに次のような記述があります。

国立公文書館デジタルアーカイブ「神代皇代大成経序」より

ここには次のようなことが書かれています。

聖徳太子が、推古天皇へ進言します。
「この国(日本)の各地の古い家系に伝わる叡智が書かれた書物を集めて我々の言葉で編纂し、これを後代の指針としましょう。これらは放っておけばやがて失われ、それは我々にとっても好ましいことではありません」
これを受け、大臣の蘇我馬子にこう命じます。
「吾道、物部、忌部、卜部、出雲、三輪。この六家に命じて内録と各家の秘伝書を差し出させよ」

この六家が、渡来人に滅ぼされる以前の旧・天皇家を守護した家系です。籠神社や伊雑宮に見え隠れする六芒星は、この守護六家の結束を誓うシンボルを意味していると推測します。旧・天皇家と守護六家で、合わせて七家。

内録というのは、三種の神器とともに皇位継承に際して相続されてきた旧・天皇家の秘録。特に重要な文書です。
六家の秘伝書にしても、それぞれの家系ごとに専門的に担ってきた軍事や占い、この世界の仕組み、人の生き方の心得などの叡智を記したものでした。たとえば、物部は軍事担当。武士を表す古い言葉「もののふ」は物部から来ています。

こうして集められた内録と六家の秘伝書は、それぞれ異なる神代文字で書かれていました。これを解読し漢文で編纂したのが秦河勝を中心とする秦一族です。秦の性はその出自が中国の秦(しん)であることを示します。

蘇我馬子や聖徳太子の物言いからしても、彼らが旧・天皇家を滅し、伊勢神宮内宮に皇祖神が祀られるという歴史を“創作”した大陸渡来人の子孫であるように読めます。古代日本の叡智を集めるという理由に加え、日本国を統治する上で浅い歴史しか持っていなかったので、そういう意味でも古い家系の秘伝書を欲しがったという見方もできますね。

秦河勝はなぜ古代日本の神代文字を読めたのか、という点に謎が残りますが、それについての考察は次回以降。

戦いに敗れ旧・天皇家が渡来人に支配された時、六家の生き残りは一族皆殺しを避けるため表向きには渡来人の下に降ったが、心からの忠誠を誓ったわけではなかったようです。神代皇代大成経序の中で秘伝書を渡す場面でも、聖徳太子が「神代の時代の記録がない、まだ隠している文書があるのではないか」と問い詰め、やっと全ての秘密を公開したというくだりがあります。その最後の秘伝書は士笥(土で作られたタブレット)だとされ、縄文時代にまで遡る可能性があります。
この水面下でくすぶっていた渡来人系天皇家への反発心が江戸時代に表面化したのが伊雑宮に絡む一連の事件だったのではないでしょうか。

六家の筆頭に挙げられている吾道(あち)家。他の五家は歴史書に幾度も名前が登場する有名な家系ですが、吾道家だけは聞いたことがないという人が多いはず。六家の中でも特に重要な家柄だったからこそ、渡来人によって歴史の闇に葬られたのかもしれません。

吾道家の子孫は長野県に移り、現在の阿智村のあたりに隠れ住んだと僕は考えます。そう考える根拠は、その名前はもちろんのこと、阿智村の村章にあります。

阿智村村章

この図案はカタカナの「ア」と「チ」が組み合わされたものですが、それと同時に明らかに六芒星を意識したデザインに見えます。単なる偶然なのでしょうか。偶然にしても出来過ぎですが。ちなみに阿智村はこの現代、環境省から「日本一星空の観測に適した場所」と認定されていて、その公式サイトのシンボルマークもこれまた六芒星。

物部家にしても、籠神社の祭神である饒速日命の子孫であることから、六芒星との繋がりは明らかです。

三輪家はどうでしょう。
奈良の大神神社(三輪山)の社伝には、三河の石巻山が三輪山の元宮である旨が記されていることは以前書きました。
その石巻山に見えない力に引き寄せられるようにして行き、そこでこの六芒星を見たから、僕は自分自身でも理由がわからないまま、今書いているような神社めぐりと古代の探求を始めたのです。そういう意味では三輪と六芒星の関係性は僕個人にとっては極めて重要です。

石巻山の六芒星

出雲、卜部、忌部については調べていませんが、六芒星との関係性はちゃんと調べれば出てくるかもしれません。

神代皇代大成経序を含む先代旧事本紀大成経の原本は、国立公文書館のサイトで読めるので興味ある人は読んでみてはいかがでしょうか。ブラウザで直接開くと重いのでダウンロードすることをおすすめします。
国立公文書館デジタルアーカイブ

しかし、江戸時代に禁書とされたものを国が一般公開しているというのも面白いものですね。禁書とされた経緯を現代の国の職員が知らないとも思えませんが、もう公開しても問題ないという判断なんですかね。

では、次の記事からまた伊勢年末詣の旅記録に戻ります。