荒ぶる神とこれからの世界~津島神社と素戔嗚尊

僕が子供の頃に読んだなにかの本に、牛頭(ごず)が出てきた。人間の巨体に牛の頭を持つ怪物。本のタイトルや内容ははっきり覚えていないが、イラストレーターの末弥純による牛頭の絵の印象が強く残っている。末弥純の絵、というところから推測すると、その本はゲーム「ウィザードリィ」の画集だっただろうと思う。

僕がその本で見たのは、おそらく京都八坂神社の祭神「牛頭天王」をモデルとして創作されたであろう、ただの怪物。所詮ゲームの中の話だからね。ただその牛頭に、幼心に言い知れない恐さを感じてた。見た目が怖いとかそういう事ではなく、その「ごず」の語感から、触れてはいけないような、ただならぬ気配を感じていた。ただ嫌悪感はなかった。怖いもの見たさというのともちょっと違う。あれもやはり「畏怖」の感情に近いと思う。

今回はその怪物のモデルとなった牛頭天王の話。

牛頭天王は、天照大神の弟神である素戔嗚尊(建速須佐之男命:スサノオノミコト)の別名。そのスサノオを主祭神とする津島神社は、僕の地元にある。うちから自転車で行ける距離の超地元だ。にも関わらず、僕はこれまで一度も行ったことがない。あまりに地元すぎるスポットは特別な機会でもないと逆に一度も行かなかったりしない?僕にとっての津島神社はそういう場所だった。尾張津島天王祭は有名だけど、とんでもなく混むから人混み嫌いな僕はこれも一度も見に行ったことはない。

スサノオは、荒(すさ)む、凄(すさ)まじい、という音の繋がりからもわかるように、荒ぶる神。そして疫病や厄災を司る神である。津島神社の参拝客のほとんどはスサノオのことを「人々を厄災、疫病から守る神様」と考えている(津島神社の公式サイトにさえそう書かれている)が、僕はこれはずいぶん都合の良い解釈ではないかと思う。厄災から守るのではなく、逆にあらゆる災禍をもってして人々の精神を磨き、気付きを与えるお役目の神様だと解釈するほうが自然な気がする。参拝客は津島神社にお参りした後で厄災にあったら、守ってくれなかったとしてスサノオを呪うのだろうか。そのような心持ちなら荒ぶる神は、気付くまで…それこそ人の命を奪ってでも厄災を止めないだろう。

津島神社について少し知識を仕入れておこうと調べたのは今回が初めて。だから幼い僕が「牛頭は疫病や厄災を司る神」と知っていたはずはない。僕がとおい昔抱いたその得体の知れない畏怖心に今になって理由が見つかって納得すると同時に、僕と日本神話(あるいは大陸系神話)とは、幼い頃からすでに精神的な結びつきがあったんだなと、感慨深く思うのである。

今週のいつか、仕事に行く前にいつもよりもさらに早起きして津島神社に初参拝に行ってこようと思う。明日からしばらく雨の予報だから金曜日くらいにしようか。早朝の蒼い空気の中で撮る神社の写真も雰囲気があって良いからね。うーさんにも津島神社に行ってくるように即されたしw

ついでと言ってはなんだけど津島神社に程近い、織田信長の生誕地である勝幡城址にも行こう。ここも超地元だけにこれまで行ったことがない。まあ見にいくと言っても今は勝幡城は影も形も無く、あるのは私有地の一角に寂しく立つ碑だけだが。その住所は「平和町城之内」。比叡山焼き討ちに象徴される、荒ぶるスサノオの化身のごとき信長の生誕地が、500年後に「平和町」となっているとは面白い。

本来 悪も善もなし

日が経つにつれて不安が増大していく一方の、現在の中東アラブ諸国の紛争や戦争。「アラブ」や「ア・ラー」と「荒ぶる」の音の繋がり。「荒ぶるアラブ」とか親父ギャグを言いたいわけではない。こういった音のつながりは、はるか古代から全世界的に言葉と発音に不思議な意味的共通性があり、それが今日まで続いている証だと考える。

今現在、西洋社会にとってもっとも脅威となっているのは、史上最大のテロ組織「イスラム国」の存在だ。その人間の所業とは思えない残虐性は、あのアルカイダすらも「同一視されたくない」と今年2月に絶縁を表明したほどだ。イスラム国は(縁遠い僕ら日本人にとっては、かもしれないが)いつのまにか誕生し、気付いたらニュースの常連となり、次の瞬間にはもう欧米各国を脅かすほどの史上最大のテロ組織へと拡大していた…というような印象を受ける人が多いのではないだろうか。この組織の指導者がどれほど人心掌握術に長けていたとしても、これほどの早業は人間には到底不可能のように思える。

だがそこに潜むロジックは考えてみれば明白だ。イスラム国にはイラク人やシリア人だけでなく、欧米各国の人間も自ら志願して参加している点が、これまでのテロ組織とは大きく違う。その中には白人もいるが、多くは欧米に移住したムスリムの二世三世だと言う。

2001年にアメリカで起きた同時多発テロ。それを起こしたのがイスラム原理主義のテロ組織という事で、それからもう10年以上、欧米移住者は言われなき差別に苦しんできた。彼らはただ欧米に住んでいるだけで、テロとは何の関係も無いのに、ムスリムというだけの理由で差別にあった。仕事につけなかった事もあるだろうし、教育を受けさせてもらえなかった事も、暴力や暴言を受けたこともあるだろう。そして当時の子供たちはそんな大人を見ながら育った。ムスリムの大人が差別へ抗うでもなく妥協して貧困の中で生き、ニュースで故郷への空爆や紛争を見聞きしてもなにをするでもなく、あくまで自分たちとは関係のない話だと現実から目をそらす大人の背中を、若者たちは幼い頃から見てきているはずだ。この10数年の蓄積で、いろいろな理由で不満と絶望を西洋社会と大人たちに対して感じる大勢の若者たちの憤懣が、すでに水面下で爆発寸前になっていただろう。それは白人の子供にとっても同じだ。弱体化しすでに破綻も見えてきている資本主義経済とグローバリズムの幻想にいつまでもしがみつく大人の妥協した生き方に疑問を抱きながら育った子供は多い。

そんな2010年代にイスラム国は現れた。イスラム国の指導者は、そうして蓄積・抑圧され爆発寸前の欧米各国の若者の心理を見抜いた。そして彼らに対してメディアやインターネットを通じ巧妙なプロパガンダ戦略によってイスラム国への参加を呼びかけた。そうなれば、物事を熟慮せず感情が先行する若者が扇動され、イスラム国参加へと心が動いていくのは時間の問題だけということになる。最大最凶のテロ組織を作るための土壌はすでに用意されていて、指導者はただ始動のボタンを押すだけで良かったのだ。ムスリム差別とはもっとも縁遠いはずのこの日本にも、極めて少数ではあるが実際にイスラム国志願者がいるくらいなのだからね。

世界がいまもっとも怖れている点は、彼ら志願参加者が本物の欧米各国の国籍やパスポートを所持しているということ。彼らがいったん正体を隠してしまえば、いつどこの国でどんなテロを起こす計画があるのか、政府側からは極めて把握し辛くなっているのだ。だからこそ、もう欧米各国も手段を選んでいられないというところまで来ている。どれだけの無関係な人が犠牲になるとしても、イスラム国との全面戦争へと突入していくのかもしれない。そうなれば、イスラム国はその点をも巧みに利用するだろう。「西洋社会は無差別殺人を行う悪の帝国だ。正義は我々にある」という論理がさらに強化される既成事実につながり、世界はますます破滅的な方向へと進んでいく。

ひふみ神示 海の巻 第05帖
三千年の昔から、幾千万の人々が、悪を殺して人類の、平和を求め願ひしも、それははかなき水の泡、悪殺しても殺しても、焼いても煮てもしゃぶっても、悪は益々ふへるのみ、悪殺すてふ其のことが、悪そのものと知らざるや、神の心は弥栄ぞ、本来 悪も善もなし

織田信長は戦国武将の中でもとりわけ人気が高い。太平の江戸時代へと続く、天下統一の土台を築いた英雄。信長がいなければ秀吉・家康の天下統一も無かっただろう。僕もその事に異論はない。ただ考えてみると自分の中の矛盾に気付く。もしも僕が戦国時代、比叡山の僧兵として生まれていたらどうだろう。信長に従わないというそれだけの理由で無残に火をつけられ焼き殺される。それでも信長を英雄視するだろうか。ありえない。悪魔か鬼にしか見えないだろう。自分の目の前に信長が立っていたら、身内を守るために躊躇なく信長を殺す。悪魔を成敗した喜びに心の底から満足するに違いない。そしてその信長の死によって太平の世は訪れず、戦国の乱世が続いて人々は苦しみ続けることになる。正義はどちらにあるだろうか。

正義が勝つのではなく、非道だろうがなんだろうが勝ったものが正義とされる事は歴史が証明している。信長は手段を選ばず戦いに勝ったから今の世で英雄視されている。もしも比叡山の僧兵が勝っていたら、信長は悪鬼の象徴のごとく全く違う扱いになっていたはずだ。真理はただ一つのはずなのに、自分の見方ひとつでこのように物事の正否までが変わって見えるということは、まだまだ僕は未熟者なのだという証。つまりひふみ神示が示すように「本来 悪も善もなし」というのがこの世のただ一つの真理だ。その意味で、イスラム国がどれだけ極悪非道であっても、それを悪と見て憎んではいけない。悪に見えるものを悪と見る心こそが悪なんだ。と理屈の上では理解していても、僕はまだまだこの考え方を自分のものとして消化できていない。もっと精神磨きが必要だな。そしてその精神性を共有できる仲間を見つけたい。

日本人という民族はこの事の本質を理解するポテンシャルを持つ人が多い稀有な民族であり、理想の世界の象徴となれる可能性を秘めていると思う。そして荒ぶる神の顕現は、そのことに気付けと教えてくれている気がする。

長くなったので一旦区切ります。
次の記事「荒ぶる神とこれからの世界~白山神社の神紋が示す意味」へと続く。

竜を追う白山系神社めぐり(3)

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翌日の朝、ネット友達の「うーさん」と合流。初対面だけど割とすぐうちとけた。この日はうーさんと共に白山信仰の総本山、白山比咩神社を中心に散策。「しらやまひめ」の読みもあり、やさしい女性的な感じのする癒し系神社。白山中居神社と平泉寺白山神社は明らかに男性的な印象だった。同じ白山神社でもこうもはっきり感じ方が違うものなんだなぁ。うーさんは身体感覚が非常に鋭いらしく、僕には何もないと思える場所でも「ここあたりは手がピリピリする」と言う。

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白山比咩神社の裏手にある樹木公園

面白かったのは、うーさんと合流してから行く先々にハクセキレイがいたこと。セキレイ(wagtail)は僕の好きな鳥で、このサイトのタイトルにもしている。車で手取川沿いを走っている時にもハクセキレイが車のすぐ前に現れ、少しの間だけど先導するかのように前を飛んでいた。車より飛ぶのが遅いからあやうくはねそうになった^^;

他には金剱宮にも行った。この頃にはかなり精神的な疲れが出て集中力が切れてきていたので神社の印象が薄い。案内してくれたうーさんごめん。金運上昇のご利益があるとかで人気の神社らしい。たしかにこじんまりした規模の割りには人が多かった。

道の駅の横の休憩場で昼食。鱒寿司と堅豆腐。これもおいしかった。この次の日は一人で富山方面に行く予定でいたのだが、台風19号が来ていたため中止にした。ただかなり疲れがあったので台風が来ていなくてもたぶん富山には行けなかったと思う。

今回のように中部地方を南から北に縦断するルートは昇龍道プロジェクトという名で自治体や観光関係団体がアピールしている。その理由は、能登半島の形が龍の頭の形に似ており、龍が昇っていく様子を思い起こさせるから。そして龍にまつわる伝説、祭り、地名も数多くあるからとしている。僕には伝説や地形以上に、日本人の精神の奥深くに古来から竜と深い繋がりがあるような気がして仕方がない。そしてそれは、白山を中心とするこの地を発祥とするものだという気もするんだよね。それはこれから色々調べていくうちにもっとはっきりしてくると思う。



PA110215白山中居神社 西側

今回の旅ではっきりわかったことがある。白山神社は別格だ。今の日本でもっとも社格が高い神社と言えば、表向きには伊勢神宮という事になっている。しかし僕の感覚では、伊勢神宮よりも白山神社のほうが格上だと感じる。

その白山神社の中にもまた格付けがある。全国に白山神社は三千余社あり、白山比咩神社がその総本宮とされる。その下に平泉寺白山神社と長滝白山神社が来る。この三社は「白山三社」と呼ばれている。このうち長滝白山神社は今回行っていないので、いつか機会があれば行ってみるつもりではいる。でもどうしてかこの長滝白山神社にはそれほど強く行きたいという感じはしないんだよね。あくまで僕個人の中ではだが、白山中居神社が別格中の別格。表向きにはそうなっていなくても。全国の神社で僕が行っていないところはまだ無数にあるが、白山中居神社以上だと感じるところは存在するだろうか?

人それぞれ神社に対する感じ方は違うものだと思う。もちろん伊勢神宮が最高だと感じる人もいるだろうし、出雲大社がそうだと感じる人もいるだろうね。僕にとっては竜神系・白山系の神社が最高だということかな。今のところは。その理由についてもうすうす感じてはいるが、まだちゃんとした考えとしてまとまってはいないので、それを書くのはもう少し後にする。京都から見て鬼門の方角に白山がある事もかなり関係が深いはず。

鳥は恐竜の血を引いている。セキレイは神話の中でイザナギ・イザナミの国産みを導いた鳥ともされる。arc & wagtail の arc は円弧(架け橋)の意味と共に始祖鳥(Archaeopteryx)ともかけている。

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