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年越し熊野旅(1)~鬼ケ城と熊野灘~

明けましておめでとうございます。2017年最初のエントリは、12月30日から元旦まで熊野方面に行ってきたのでその旅の記録を書いて行こうと思う。本格的な神社めぐりはずいぶん久しぶりになる。いつものように直感だけで熊野に行くと決め、具体的に熊野のどこに寄るかは旅の直前になって少し調べただけの行き当たりばったり旅。しかし予想以上に収穫の多い旅となった。書きたいことがとても多いので、記憶が薄れないうちに一気に書いてしまおう。

30日、朝9:15に家を出発。三重県の多度大社の横を通過していなべ市へ。多度大社と言えば、母方の実家が多度にあり、僕も幼い頃何度か連れられて来たことがある馴染み深い神社である。僕の探求に絡む“神社めぐり”と直接関係してくることは今のところ無さそうだが、車で30分の距離なので、普通の神社紹介日記としてそのうち一度は取り上げるかもね。
この日は時間もたっぷり余裕があり、竜ヶ岳や御在所岳を眺めながらのんびりと車を走らせた。雪山登山にもチャレンジしてみたいんだよね。最初に登るとしたらまずはアイゼンの装着に慣れる為にこの標高が低くて登りやすい竜ヶ岳あたりかな?

いざ熊野へ

熊野は隣県とは言っても距離にして200km近くあり、高速道路を使わないとかなりしんどい。四日市から亀山ICまでは帰省ラッシュで大渋滞していたので、亀山ICの次の芸濃ICまで一般道の306号線を使うことにした。この日の306号はガラッガラで、信号も少ないので50~60km/h巡航。渋滞している高速道路よりもかなり速いのは間違いない。

いなべ市から菰野町へと進む。その菰野町でも小休止を挟みながら、ある考え事をしていた。あれは水と六の旅の帰り道だった。菰野町を通過しているとき、ある場所でふいに懐かしいような神気漂うなような表現しがたい感覚を覚えた。僕は慣れない土地をドライブしているとたまにこういう事がある。その付近になにかあるのかと後で調べてみたが、神社やいわゆるパワースポット的なものがあるというような情報は特に見つからなかった。

それ以来、菰野町を通るたびにあの感覚をまた感じられはしないかと少し期待するのだが、感じられたのはその最初の一度きりだった。そして今回も同じく、なにも感じられなかった。このことについて考えていて、ふいに気付いた。もしかしたらこういう感覚は「感じたい」と頭で意識していると、逆に感じ取れなくなるものなのかもしれない、と。
“水と六の旅”の時は菰野町になんの思いも事前知識もなく、旅の疲れもあって心が完全に無防備でフラットだった。だからこそあのときは感じ取れたのかもしれない。菰野町でのあの感覚について調べる手掛かりが今のところなにもないが、これについてもいつか何かわかる日が来るだろうか?そんなことを思いながら菰野町を後にした。

芸濃ICから東名阪自動車道へ。朝から良く晴れていた。晴れの予報さえ曇りにしてしまう曇り男の僕にしては珍しいなー。などと思っていたら、案の定ここらへんでどんよりと黒い雲が空を覆い、小雨も降ってきた。ですよねー。特に気にせず車を走らせていると、雲は去り、再び晴れてくれて、それ以降雨雲を見ることはなかった。幸先良い。1時間半ほど走ったところで紀北パーキングエリア(始神テラス)という綺麗なPAを見つけた。ここで遅めの昼休みをとることにした。

こんな杖が置いてある。

この始神テラスから直接、熊野古道「始神峠」に入ることができるらしい。今回の旅では熊野古道を歩く予定はないが、緑の香る季節に熊野古道も歩いてみたいと思っていたので、これは良い情報をゲットした。PAから直接入れるなら便利だね。でも便利を求めすぎて、完全に観光地化してしまって雰囲気を台無しにしまうことだけは絶対に避けてほしい。登山をしているとあちらこちらでそんな惨状になってしまった山を見る。それだったら不便なままなほうがはるかにいいよ。予算を握っている人々にはそこらへんのさじ加減をぜひ慎重にやってもらいたいと心から願う。

露店で売っていたたこ焼き(しょうゆ味)が昼食。たこ焼き大好きな僕は目にするとつい買ってしまうのだった。味は…60点!まあ普通のたこ焼きだね。

紀北パーキングエリアからさらに高速道路の無料区間を40分も走ると熊野市に入る。世界遺産・鬼ヶ城沿いの暗いトンネルを抜けた時、日が傾きかけた空とその日の光を反射する海が視界いっぱいに広がった。その光景にちょっと感動し、それまでの運転疲れさえ心地よく感じた。予約してあったホテルにチェックインして海を見ながらゆっくり休憩したあと、再び車に乗って、来た道を5分ほど戻り鬼ヶ城を散策することにした。

鬼ヶ城(おにがじょう)

2004年7月7日「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部としてユネスコの世界遺産に登録された鬼ヶ城は、伊勢志摩から始まるリアス式海岸の南端に位置し熊野灘の荒波に削られた大小の海蝕洞が約1.2km続く凝灰岩の大岸壁です。
高さ2~4mの崖は階段上になっており、数回にわたる急激な地盤の隆起のあとが見られます。
波蝕洞の入口はどれも鷹のクチバシように先端が尖り、天井部分には蜂の巣状の風蝕跡が見られ床面は板のように平らかな棚となっています。中でも東口にある千畳敷は上下2段の大きな岩窟で鬼ヶ城のいちばんの見所です。

古くは「鬼岩屋(おにのいわや)」と呼ばれていましたが、有馬氏が山頂に城を築いたのちに現在の名称である「鬼ヶ城」と親しまれています。鬼ヶ城センターより、海岸線の遊歩道を歩いて鬼ヶ城西口までの道のりは片道約40分。熊野の自然が造り上げた彫刻美をぜひご覧ください。
http://onigajyo.mie.jp/onigajyo.html

時間が遅めだったからか他の観光客はあまりおらず、ゆっくりと散策。波音もとても気持ちよくて眠気を誘う。

途中から通行禁止になっていた。復旧予定時期も未定とのこと。残念だけど千畳敷が見られただけで良しとした。次の日は嫌というほど歩くことになるし、むしろ体力温存になって良かったかもしれない。

ホテルに戻ってまた少し休んでいると、あっという間に暗くなった。ホテルは素泊まりプランだったので、夕食を食べにまた外へ。どこで食べるかまったく考えていなかった。あえて予定は考えず運まかせで店を決めて当たりかハズレかのスリルを味わうのも僕のひそかな旅の楽しみ方の一つだ。スマホで付近を検索して勘で選んだ「花のいわや亭」という店に決めた。

当たりだった。店の雰囲気がとても良く、一人でも半個室の落ち着ける席に案内されてとてもゆっくりできた。注文したのは「中トロ入り本マグロ丼セット」。うまい!僕は普段、刺身はどちらかというと苦手な方で、自分から好んで食べることはまずない。でも海沿いでは話は別だ。同じ魚とは思えないくらい全然味が違うんだ。まったくくさみがなくて、油もしつこくなく、甘みがあってとにかくうまい。マグロ丼の他に、てんぷら盛り合わせとネギトロ、汁物、とろろ汁、茶碗蒸し、甘味がつく。マグロを半分食べたところでとろろ汁をかけて山かけマグロ丼にして食べる、ひつまぶし的な贅沢感。これで値段は税抜き1600円。やっぱり海の町に来たら海鮮だね。

京都や奈良や東京など他所の土地に行くと、たいていの場合、街中か自然の中かに関わらず変に緊張してすぐ疲れてしまうのだが、熊野市にいるあいだはそういうこともなく終止リラックスできた。「熊野の海や町並みの空気感が自分に合っているんだな」と、とても気に入った。以前、巨石探訪 ~ 恵那・笠置山の“ピラミッド” (1)で「恵那という土地は以前から好きで、行くとなぜだかとても心が安らぐ。もし春の穏やかな日にでも恵那に行けば、きっと心地よくていつまでも居眠りしていそうな気がする。」と書いた。そう、熊野の安心感というか居心地の良さは、恵那の空気感にとても似ていたのだ。恵那は山で、熊野は海。でも僕にはとても似ていると感じられた。この翌日、恵那と熊野の空気感に関してまったく予想もしていなかった発見をすることになる。

ホテルに帰り、風呂で温まって布団にもぐりこむとすぐに眠りに落ちた。明日はこの旅の本番、神社めぐりだ。

次:「年越し熊野旅(2)~上っては下る熊野の神社めぐり~

治水神社

12月30日。僕は年越しをどこで過ごそうか考えていました。やはり神社好きとしては神社で過ごしたいという気持ちがまず念頭にあり。あとは以下の条件に当てはまるところで探しました。

1. あまり有名ではなく、人が少ないこと(人ごみが嫌いなので)
2. 水に関係する(なんとなく直感で)
3. お焚き上げやかがり火があること(暖がとれて大晦日の神社らしい雰囲気があるから)
4. あわよくばニューイヤー花火がタダで見られる場所にあること(金払え)

そしてこの条件すべてを満たす神社が僕の家からわりと近くに見つかりました。それが治水神社でした。
愛知・岐阜・三重の東海三県のちょうど県境にあり、また木曽川・長良川・揖斐川という三川が合流する場所でもあります。東京ディズニーランドに次ぐ敷地面積を持つ大型アミューズメントパーク「ナガシマスパーランド」からも近く、ナガシマで打ち上げられるニューイヤー花火も治水神社から見られたと思います。「と思います」と言うのは、実はいろいろあって結局のところ治水神社での年越しは実現できなかったのですが、まあそれは置いといて。

僕は今回調べてみるまでこの神社のことは全くと言っていいほど知りませんでしたが、知れば知るほど興味深い神社でした。祭神は、薩摩藩家老であり大掛かりな治水工事「宝暦治水」を率いた平田靱負と薩摩藩士84名。

平田 靱負(ひらた ゆきえ)は、江戸時代中期の薩摩藩家老。宝暦3年(1753年)の木曽三川分流工事(宝暦治水事件)の責任者。

1753年(宝暦3年)、徳川幕府は琉球との貿易によって財力を得ていた薩摩藩を恐れて、毎年氾濫による被害が多発していた木曽三川の分流工事を薩摩藩に命じる。工事費用は薩摩藩が全額負担、大工などの専門職人を一切雇ってはならないとした。
露骨な弾圧政策に薩摩藩は幕府への反発を極め、このまま潰されるくらいなら一戦交えようという過激な意見まで噴出したが、平田が「民に尽くすもまた武士の本分」と説破して工事を引き受けることとなり、平田は総奉行となる。
40万両にも上る工事費用を捻出するため大坂豪商から借金を重ね、幕府へもたびたび専門職人の雇用許可を要請するも許可は下りず、工事のやり直しを命じられることがしばしばあった。工事に派遣された薩摩藩士達の過労や伝染病による死亡が相次ぎ、また幕府に抗議して切腹する薩摩藩士達も続出した(この時には、本来監視役のはずの徳川家からも、薩摩藩に同情して抗議の切腹を行う武士が二名いたほどである)。この件に関して、平田は幕府との摩擦を回避するため、切腹した藩士たちを事故死として処理している。薩摩藩は最終的に病死33名、自殺者52名という多大な殉職者を出している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/平田靱負

この神社の存在は全国的にはほとんど知られていませんが、日本の歴史ととても深い関係がある神社なんですね。治水神社にはふたつの紋があります。ひとつは平田家の家紋である、〒を逆さにしたような紋。もう一つは薩摩藩島津家の家紋である丸十字。この「丸十字」のシンボルマークが僕と縁深いということは、過去記事「水と六の旅 ~ 三重・奈良(3)」でも書きました。そういえばその理由をまだ書いていませんでした。僕が神社めぐりをはじめた理由に絡む「六芒星」の話と共に、おいおい書いていきたいと思います。話せば長くかつ複雑な話になるので文章にまとめる気力がなくて、ついついそれを先延ばしにしてしまっているのですが、頑張ります。

治水神社から眺める夕日がとても綺麗でした。