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年越し熊野旅(5)~玉石社と玉置の神~

冬、家で布団の中で寝ているときには外気温の変化を実感することはない。車中泊していると分単位で気温が下がっていく事が手に取るようにわかるから面白い。太陽が西の空に沈んでから再び東の空に顔を出すまで気温は下がり続ける。よく晴れて雲も無いから放射冷却現象で冷え込みがより厳しい。防寒対策はしっかりしてきたつもりだったけどそれでも寒かった。結局寒すぎてよく眠れず寝たり起きたりを繰り返していた。浅い眠りの中で、変わった夢を見た。僕が何かを盗んだ犯人(何を盗んだのかはわからない)になっているところからその夢ははじまる。目の前に厳しい顔をした人がいて「反省しなさい!」と大声で叱られた。しかし怖さはなくて、厳しいながらも暖かく諭してくれているという印象。そしてその人は筆で紙になにかを書きはじめた。多分字を書いているらしいのだが、何を書いているのかはわからない。

夢を見たのはその一回だけで、気が付いたらいつのまにか朝になっていた。

夕方仮眠をとっていたから睡眠不足ではないけど疲労感は取りきれなかった。窓だな。車の窓から外の冷気がダイレクトに伝わってくる。窓にも防寒処理を施せばもっとマシになるかもしれない。次に冬山で車中泊をする時は、ホームセンターで売っている「プチプチ」を買って窓の形に切り抜いて貼ってみよう。ただ人間として生まれたなら一度はこうして寒い思いをして自然の気温変化を肌で感じるという経験をしてみることもある意味では必要なことだと思う。-20度くらいの極寒の世界も一度体験してみたい(死なない程度に)。

元日の朝日の中、再び玉置の神域へ

昨晩は真っ暗で山の風景は何も見えなかった。改めて元日の朝日を浴びながら神社への道を進んでいく。杉の巨木が光を受けて幻想的だった。昨晩強風が吹いていたあたりは今朝は比較的穏やかな風に変わっていた。それでも“風の境界線”という気配は昨晩同様に感じられた。昨晩は地形がわからなかったが、見てみると切り込んだ谷がこちらにむかって狭くなっている。そこを通って加速した風が吹き上がってこのあたりだけに強い風が吹くみたいだ。

玉置神社

大峰山脈の南端に位置する標高1,076mの玉置山の山頂近くに鎮座し神武天皇御東征の途上として伝承されています。創立は紀元前三十七年第十代崇神天皇の御宇に王城火防鎮護と悪魔退散のため早玉神を奉祀したことに始まると伝えられています。古くより熊野から吉野に至る熊野・大峰修験の行場の一つとされ、平安時代には神仏混淆となり玉置三所権現または熊野三山の奥院と称せられ霊場として栄えました。江戸時代には別当寺高牟婁院が置かれていました。その後、慶応四年の神仏分離により神仏混淆を廃し以後玉置三所大神、更に玉置神社となり現在に至っています。境内には樹齢三千年と云われる神代杉を始め天然記念物に指定されている杉の巨樹が叢生し、平成十六年には「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に登録されました。
玉置神社公式サイト

玉置神社の本殿。国常立尊、イザナギ、イザナミの三神(三柱)が祀られ、明治6年に天照大御神と神武天皇が合祀された。ここは後で参ることにして、先に玉置山最高の神域である玉石社へと向かう。右手の道を進み、社務所の横を通って山頂に続く階段を上がっていく。

玉石社に近付くにつれ、明らかに山の雰囲気が変わってきた。15分ほど階段を登ると玉石社に着いた。

玉石社

古代、神武東征以前から熊野磐座信仰の一つとして崇められてきた玉石は、玉置神社本殿と玉置山頂上中程に鎮座します。社殿がなくご神体の玉石に礼拝する古代の信仰様式を残しています。玉置神社の基となったのが、この玉石社と伝えられ、玉石に宝珠や神宝を鎮めて祈願したと伝わっています。大峯修験道では、玉石社を聖地と崇め、本殿に先んじて礼拝するのが習わしとなっています。

ここに祀られている神は大己貴尊(出雲大社の大国主命の別名)。三本の巨木の中心にご神体の玉石がある。地中に埋まっている部分は相当に大きいと言い伝えられているが実際にどれくらいあるのかはおそらく誰も知らない。花の窟神社では過去トップクラスの異世界感を感じたので、ここ玉石社はそれを上回るかと思っていた。ところが実際に玉石社の前に立ってみるととても静かでまるで神が寝静まっているかのような印象だった。それは玉置神社本殿でも同様。天河神社のような“不在”というような感じでもないのだが・・・。なにか奇妙な感じがした。それはそれとして、この“三本の巨木の中心に玉石”という自然が作り出したご神体の様式を見ながら僕はしばらくある考え事をしていた。その件はかなり長い話になるのでこの熊野の旅レポを書き終わったら書くことにしよう。玉石社の参拝を終えると、右手からさらに上に続く階段を上る。昨日からの疲れがだいぶ足に来ていた。ゆっくりと時間をかけて上り、ほどなく玉置山山頂に到着した。

白い霜が朝日を反射してキラキラと輝いていた。山頂付近には現代人の手が入っているせいだろうか。神聖な気配はなく再びどこにでもある山という印象を受ける。

「宝冠の森 50分」の立て札がある。ここまで来たらこの宝冠の森にも是非とも行ってみたかったのだが、家に帰る時間を考えると無理だった。また次の機会に行きたいと思う。宝冠の森へ続く道の左手にもう一本道があった。その道の先にあるものが気になり、少し歩いてみる事にした。そこにあったものは・・・。

電波塔。こんなものが建ったら当然神聖な気配など一瞬で吹き飛んでしまうよね。人口が増えれば土地や山林の開発も欠かせないという事は理解している。でもわざわざ歴史のある神の山のてっぺんに電波塔を建てる必要はあったのか?建設案が出たときに誰も反対しなかったのか?と非常に残念な気持ちになった。

産田神社で出会ったおじいさんの「昔は下から歩いて上るしかなかった」という言葉を思い出した。たしかに車道があれば誰でも簡単に玉置神社に来られる。しかしその開発によって、この聖山の精霊を追い払ってしまったのではないか。玉置神社から玉石社のところまで、杉の巨木とともに神域はたしかにいまも開発されずに残されている。けれどこれも考えてみれば傲慢な話だ。「ここからここは人間の領域。神様はこれだけあればいいよね。はいどうぞ」という考え方である。神の頭上に電波塔まで建ててしまうくらいである。自然や神を敬う気持ちがそこには微塵もない。

ろくな登山装備もないずっと昔は、玉置山参拝は文字通り命がけだったという。命をかけてでも絶対に行くんだと言う強い覚悟で望むべき神の山。「選ばれた人しかたどりつけない」という伝説はその頃に生まれたのだろう。いまはどうか?道ができて誰でも安全にレジャー感覚で簡単に来られるようになった。しかし玉置の神はそうして楽をして来た人には向き合ってくれない神なのかもしれない。僕が玉石社の大己貴尊も玉置神社の国常立尊も静かに寝静まっているのでは?という印象を受けたのも、そのためかもしれない。あの「反省しなさい」という夢はそのヒントなのだろうか。僕も道が出来る前の神秘の玉置山を一度この目で見て、そして自分の足で土を踏んで体感してみたかったけれど今と言う時代に生まれた以上はもうそれは叶わない。かつてはきっといたであろう山の精霊の気配はもうない。逆に今という時代に生まれた事に意味はあるのだろうか?

山頂から降りて社務所の付近まで来ると、初詣客が大勢いた。その人たちの横をすりぬけて玉置神社本殿で参拝をし、車に戻って時計を見ると10時を回っていた。日差しはポカポカと暖かく、夜の間に凍結した道もこの時間には解けていた。行きと同様なんの問題もなく山を降りることができた。2015年と2016年の年末年始はどちらも雪が降って玉置神社参拝客の事故が多発して大変だったらしい。
帰りに寄った道の駅でぜんざいが無料で頂けた。楽しかったと同時に玉置山で最後は気持ちが引き締まった、初めての熊野旅。

年越し熊野旅(2)~上っては下る熊野の神社めぐり~

2016年大晦日。熊野旅2日目。

平日は4時半起きの生活をしているせいで、休みであっても超早起き体質になってしまっている僕。この日も4時過ぎに目が覚めた。泊まったホテルは防犯上の理由で6時まで入り口が施錠され、外出ができない。時間が余ったら読もうと思って持ってきていた本は車の中だ。二度寝しようとしたが、すっかり目が覚めてしまってそれもできなかった。しかたなく面白くもないテレビを見て過ごした笑

6時になり、入り口が開くと同時にホテルスタッフに挨拶して外出した。空気がキンと冷えている。海岸で日の出を見ながら写真をパチパチ。金属製ボディのカメラはすぐに氷のように冷たくなり、それを触る手の熱もカメラに奪われて手の感覚がなくなってくる。手袋をするとカメラの操作ができないので、手をポケットに入れて暖めてはまた写真を撮る。この寒い中、波打ち際に立って釣りをしている人が何人かいた。釣りには詳しくないけど、何を釣っているんだろう?

左手に獅子岩。こういった岩はたいてい「言われてみればそう見えるかな~」程度の造形だが、これはパッと見で獅子が伏せている姿に見えるからすごい。エジプトのスフィンクスさながらに太陽が昇る方角を見つめている。

獅子岩
世界遺産、そして天然記念物及び名勝「獅子岩」は、地盤の隆起と海蝕現象によってうまれた高さ約25m、周囲約210mの奇岩です。昔から南側に位置する神仙洞の吽(うん)の岩(雌岩)に対して阿(あ)の岩(雄岩)と呼ばれ、井戸川上流に位置する大馬神社の狛犬として敬愛されていました。このため、大馬神社には今も狛犬が設置されていません。毎年8月17日に開催される「熊野大花火大会」では、多くのカメラマンが集まる絶好の撮影スポットとなります。
熊野市観光公社 獅子岩《世界遺産》

恵那と熊野を繋ぐ糸。その先へと繋がっていく糸。

昨晩、花のいわや亭を出てホテルに帰る際、ほんの目と鼻の先にある「花の窟神社」の前を通った。そのときは真っ暗で見た目にはなにもわからなかったがなぜか非常に気になって、朝日が差して明るくなったら朝食を食べるよりも前にこの花の窟神社に来ようと思っていた。神社はどこでも例外なく一日のうちで朝がもっとも神聖な気配が色濃く感じられる。朝に来れば、とても気持ちが良さそうな気がしたからだ。ホテルをチェックアウト後、さっそく花の窟神社へ。

鳥居をくぐって参道を歩いている時からすでにここが素晴らしい神社だということがわかった。本殿はなく、ご神体とされる岩を直接拝する形になっている。ご神体の岩のある空間に入るとすぐに、包み込まれるようなとても心地の良い感覚。すぐ脇の熊野街道を通っているはずの車の音も僕の耳には入らなくなり、ここは外界と隔離された、別の時間が流れている異世界のようだと感じた。ボキャブラリーが貧困で異世界としか表現できないのがもどかしい。白山中居神社平泉寺白山神社にも比肩しそうな、僕の神社めぐりで過去トップクラスの神気漂う空間。ここに居ろと言われれば何時間でもずっと居られる。それぐらい居心地が良かった。それと、この異世界感の中にかすかな異国の気配を感じた。東南アジアとかオセアニアとかそういった南の国の気配っぽいのだが、どこの国とはっきり言い切ることもできない。異国のものが置いてあるわけでもない。ここにあるのは普通の日本の植物と岩と石組み、そして神道様式の拝所のみだ。でもどういうわけか異国の情緒が確かにここでは感じられる。この空間を一歩でも出るとそのような異国の気配は感じられなくなる。

花の窟神社
花の窟は、神々の母である伊弉冊尊(イザナミノミコト)が火神・軻遇突智尊(カグツチノミコト)を産み、灼かれて亡くなった後に葬られた御陵です。平成16年7月に花の窟を含む「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産に登録されました。
花窟神社(花の窟神社)は日本書紀にも記されている日本最古の神社といわれており、古来からの聖地として今に続く信仰はあつく、全国から多くの参拝者がお越しになります。花の窟では年2回、例大祭を行います。神々に舞を奉納し、日本一長いともいわれております約170メートルの大綱を岩窟上45メートル程の高さの御神体から境内南隅の松の御神木にわたします。この「御綱掛け神事」は、太古の昔から行われており「三重県無形文化指定」されています。
世界遺産 花の窟

熊野市に来てからずっと感じていた居心地のよさの発信源はここだったんだとこの時確信した。そして恵那と熊野には一つの共通点があることに気が付いた。恵那という地名はイザナミが天照大神を生んだ時の胞衣(えな)に由来している。恵那神社の主祭神はイザナギ・イザナミの夫婦神。恵那と熊野にはイザナミという共通点があったのだ。どうも僕が心地良いとか異世界だと感じる神社にはイザナミがなにか関係しているらしい。

となると、白山中居神社と平泉寺白山神社の祭神は?
以前調べた気もするが忘れてしまっていた。さっそく改めて調べてみた。結果、もちろん平泉寺白山神社の祭神もイザナミ。白山中居神社の主祭神も、やはりイザナギ・イザナミの両神だった。ここまで一致すれば、偶然では片付けられない。

僕にとって恵那が心地よいのはただその土地が僕に合っているだけだと今までずっと思っていた。イザナミが関係しているとは今回熊野に来るまでまったく予想もしていなかったし、恵那には何度か行っているが恵那神社には一度も参拝したことがない。僕の神社めぐりのテーマを一言で表現するなら「縄文時代の人々の自然信仰(アニミズム)とその精神性を探求する旅」なのだが、イザナギ・イザナミもこれからここに絡んでくるのだろう。これからはイザナギ・イザナミを・・・特にイザナミの名を見たら積極的に追ってみようと思う。

次に向かったのは、花の窟神社から1kmほど離れたところにある、産田神社。花の窟神社はイザナミの墓所であり、産田神社はイザナミが軻遇突智尊を生んだ場所とされている。

杉の巨木があり長い歴史を感じさせる立派な神社ではあったが、花の窟神社のような特別な異世界感や神気はここでは特に感じられなかった。イザナミ繋がりであっても全ての神社が僕にとって居心地が良いわけではないということか。ちょっとだけがっかりしながら簡単に参拝を終えて帰ろうとした。その時、正月を迎えるため本殿の清掃をしていると思われる氏子らしきおじいさんが僕のほうを見たかと思うと、清掃の手を止めて手招きしてきた。何だ?本殿の前には白石が敷き詰められていて「ここから先は神域なので土足で白石を踏まないように」という旨の注意書きがあり、石を踏んで行って良いものかどうかと困惑していた。するとおじいさんはジェスチャーで「左のはじっこまで行ってぐるっと回ってこっちへこい」と示してきた。その指示に従って本殿の横まで行くと、おじいさんは地面にある石組みを指差し「これはひもろぎだよ」と言い、詳しく説明してくれた。

産田神社の神籬(ひもろぎ)
熊野市有田町産田神社の社殿の両側に直径一尺高さ五寸の丸石が並べられています。囲まれた中に五個が置かれ「ひもろぎ」跡と想像される場所があります。昔からここに落ちた枯葉など箒で掃くことなく手で取り去るようにきつく言い伝えられてきました。昭和三十五年の五月に考古学の権威の小野祖教(もとのり)国学院大学文学博士が熊野に来られ鑑定されました。その結果は約二千年前の祟神天皇「古事記や日本書記に記載」の時代の古代祭祀遺跡と判明しました。日本には東北地方に一ヶ所あるのみで、産田神社で二ヶ所目の発見であるとのことでした。この「ひもろぎ」は古代の社殿の無い時代に神をお迎えしてもてなす場所で神社の磐境(いわさかといい神の鎮座する区域)をしめすもので住民が永くたいせつに守ってきたのであろうとのことでした。

(産田神社由緒書きより)

ひもろぎをよく見るとうっすらとなにか文字のようなものが彫ってあるようにも見えるが風化しているらしく詳しいことはわからない。おじいさんが手招きしてこれを僕に見せてくれなければ僕は一生このひもろぎを目にすることも無ければ、心にとどめることさえ無かっただろう。たまたま大晦日に来て、おじいさんが正月前の清掃をしていたこと。その時、参拝客が僕一人だけだったこと。これらの条件が整わなければ見られなかったと思うと、縄文文化を追っている僕になにかの力が働いてこのひもろぎを見せてくれたのかな、などと思ったりする。もしもそうなら、僕のようなただの凡人にひもろぎを見せてどうしろというのだろう。日本に二ヶ所・・・もう一ヵ所である東北のひもろぎを探せば何かわかるのだろうか?僕の神社めぐりの旅ではいつも新しい土地へ行くたびに予想外の新しい発見があり、僕自身の意思を超えて次に訪れるべき場所がまるで自動的に示されるかのようであり、しかもその情報が次から次へと押し寄せるのでしっかりメモしていなければ忘れてしまいそうなほどだ。

「どこから来なさった?」
「愛知県からです」
「名古屋の人はここにもよく来るねぇ」
「そうなんですか。僕は神社を訪ね歩くのが好きで、今日はこれからいくつか神社をまわった後、玉置山で年越しする予定なんです」
「へぇ~そうなのかい。玉置山は昔は下から歩いて行くしかなかったが今は道も出来て上まで行けるようになったからね」

というような会話を軽く交わした後、おじいさんへお礼を言い、産田神社を後にした。ここからさらに山の奥の方に進んだところにある丹倉神社という、古代の磐座信仰の気配が感じられそうな神社にも行きたかったのだが、玉置山に行く時間がなくなるので、丹倉神社はまた次回熊野に来た時の楽しみとしておく。

熊野速玉大社

熊野市から速玉大社のある新宮市へは20kmの距離があり車で30分ほどかかる。海沿いを走るが、道と海の間に樹木があるので残念ながらオーシャンビュードライブとはならない。それと、これは多少気のせいもあるかもしれないが、熊野市から離れれば離れるほどなんだかあの居心地の良い空気感も薄れていくように思えた。おなかが減ってきたので店を探すが、直感が働かず「ここにしよう」と思える店がなかなか見つからなかった。道中にあった道の駅に寄ったがレストランは営業していなかった。速玉大社は大きな神社だからおかげ横丁的な何かもあるだろうと考え、とりあえずそのまま速玉大社まで行ってみる事にした。着いてみると、やはり熊野市とは違ってどこか冷めたような町の気配。正直、居心地は良くない。新宮市住民の方ごめんなさい。でもそう感じるのだから仕方がない。

速玉大社の駐車場に車を停め、近くの料理店に決めてそこに向かうと、ここも営業していなかった。段々どうでもよくなってきて、その店のはす向かいにあった喫茶店で朝食と昼食を兼ねてコーヒーとサンドイッチを注文した。僕以外に誰ひとり客は入ってこなかった。大晦日はこんなものなのだろうか。サンドイッチはおいしかった。

熊野速玉大社
熊野川の河口に位置する新宮の速玉大社。熊野三山(本宮・新宮・那智)の社務を統括する熊野別当の本拠が、この新宮の地におかれたこともあって新宮の速玉大社は特別の地位を占めるようになった。熊野別当は荒海をものともしない熊野水軍の統率者でもあり、平治の乱(1159)には平家方に、屋島・壇ノ浦の源平の決戦には源氏方につくなど、ときの権力を左右する力をもっていた。熊野川の流れを背にした千穂ケ峰の山すそ。鮮やかな朱塗りの大鳥居をくぐると、心が静まる空間がひろがっている。かつては「日本第一大霊験所、根本熊野権現」として紀州半島南部に広大な宗教王国を築いていた熊野権現速玉大社だ。熊野速玉大神を主神に、家津御子大神、夫須美大神の三神をまつる。社伝によると、以前は神倉山にまつられていた神々を景行天皇(71~130年)の時代にいまの場所にうつし、それが「新宮」の名のおこりになったという。「速玉」の社名の由来は、伊弉諾の唾の力を災いやけがれを払うまじないとしてあがめ、速玉男之神として神格化したという説、船の舳先で黒潮の怒濤を切り裂く水しぶきを聖なる飛沫として「速玉」と呼んだという説などさまざまだ。
新宮市観光協会

ここ速玉大社でも特にこれといって何か感ずるものはなかった。僕の神社めぐりとは無縁そうだったので、来た記念に写真だけ撮ってそそくさと退散することにした。速玉大社では、速玉大神は伊邪那岐神(イザナギ)と同一神だということになっているらしい。そうかなぁ。僕がこれまでに行ったイザナギをまつる神社と全然気配が違うんだけどなぁ、となにか釈然としない。どちらかと言うと仏教色を強く感じる。縄文人の信仰から弥生人の信仰、さらに仏教との融合という歴史の改変の中で、祭神がおかしな事になってきているだけだと勝手に予想してみる。
別に速玉大社を悪く言うつもりはないよ。祭神がどうであれ、観光名所として楽しければそれで良いといえば良い。ただ僕の神社めぐりとは直接は縁の無い社だなという気はした。車で次に向かう場所のナビの設定をしていると、後部の窓を誰かがコツンと叩いた気がした。ん?と思って振り向いても見ても誰もいない。しかしよく見ると、窓に何か白いものがついている。鳥のフン爆撃だった。
大人しく退散しようとしているのに、嫌な思い出まで残そうというのか速玉さんよ(#゚Д゚)プンスコと一瞬むっとしそうになったが、2017年は酉年である。トリのウンをもらったんだきっと。酉年は良いことがありそうだ。本当かよ。

このエントリのタイトル「上っては下る」の部分のさわりすらまだ書けていないが、長くなってきたので一旦ここで区切ることにしよう。

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