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【今日の一枚】1月11日

文章が書けないなら写真を載せればいいじゃない。
というわけで、記事更新頻度を上げるためにとりあえず撮ってきた写真を載せていく事にします。この写真は先日治水神社に行った時に撮った写真でまだアップしていなかったもの。そこそこ気に入っているのでこれを今日の一枚に。

治水神社

12月30日。僕は年越しをどこで過ごそうか考えていました。やはり神社好きとしては神社で過ごしたいという気持ちがまず念頭にあり。あとは以下の条件に当てはまるところで探しました。

1. あまり有名ではなく、人が少ないこと(人ごみが嫌いなので)
2. 水に関係する(なんとなく直感で)
3. お焚き上げやかがり火があること(暖がとれて大晦日の神社らしい雰囲気があるから)
4. あわよくばニューイヤー花火がタダで見られる場所にあること(金払え)

そしてこの条件すべてを満たす神社が僕の家からわりと近くに見つかりました。それが治水神社でした。
愛知・岐阜・三重の東海三県のちょうど県境にあり、また木曽川・長良川・揖斐川という三川が合流する場所でもあります。東京ディズニーランドに次ぐ敷地面積を持つ大型アミューズメントパーク「ナガシマスパーランド」からも近く、ナガシマで打ち上げられるニューイヤー花火も治水神社から見られたと思います。「と思います」と言うのは、実はいろいろあって結局のところ治水神社での年越しは実現できなかったのですが、まあそれは置いといて。

僕は今回調べてみるまでこの神社のことは全くと言っていいほど知りませんでしたが、知れば知るほど興味深い神社でした。祭神は、薩摩藩家老であり大掛かりな治水工事「宝暦治水」を率いた平田靱負と薩摩藩士84名。

平田 靱負(ひらた ゆきえ)は、江戸時代中期の薩摩藩家老。宝暦3年(1753年)の木曽三川分流工事(宝暦治水事件)の責任者。

1753年(宝暦3年)、徳川幕府は琉球との貿易によって財力を得ていた薩摩藩を恐れて、毎年氾濫による被害が多発していた木曽三川の分流工事を薩摩藩に命じる。工事費用は薩摩藩が全額負担、大工などの専門職人を一切雇ってはならないとした。
露骨な弾圧政策に薩摩藩は幕府への反発を極め、このまま潰されるくらいなら一戦交えようという過激な意見まで噴出したが、平田が「民に尽くすもまた武士の本分」と説破して工事を引き受けることとなり、平田は総奉行となる。
40万両にも上る工事費用を捻出するため大坂豪商から借金を重ね、幕府へもたびたび専門職人の雇用許可を要請するも許可は下りず、工事のやり直しを命じられることがしばしばあった。工事に派遣された薩摩藩士達の過労や伝染病による死亡が相次ぎ、また幕府に抗議して切腹する薩摩藩士達も続出した(この時には、本来監視役のはずの徳川家からも、薩摩藩に同情して抗議の切腹を行う武士が二名いたほどである)。この件に関して、平田は幕府との摩擦を回避するため、切腹した藩士たちを事故死として処理している。薩摩藩は最終的に病死33名、自殺者52名という多大な殉職者を出している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/平田靱負

この神社の存在は全国的にはほとんど知られていませんが、日本の歴史ととても深い関係がある神社なんですね。治水神社にはふたつの紋があります。ひとつは平田家の家紋である、〒を逆さにしたような紋。もう一つは薩摩藩島津家の家紋である丸十字。この「丸十字」のシンボルマークが僕と縁深いということは、過去記事「水と六の旅 ~ 三重・奈良(3)」でも書きました。そういえばその理由をまだ書いていませんでした。僕が神社めぐりをはじめた理由に絡む「六芒星」の話と共に、おいおい書いていきたいと思います。話せば長くかつ複雑な話になるので文章にまとめる気力がなくて、ついついそれを先延ばしにしてしまっているのですが、頑張ります。

治水神社から眺める夕日がとても綺麗でした。