カテゴリー: 巨石

年越し熊野旅(3)~続・上っては下る熊野の神社めぐり~

続いて訪れたのは、速玉大社の摂社とされる、神倉神社。538段もある急な階段をゼーハー言いながら上る。この階段は建久4年(1193年)に源頼朝によって造営されたそうだ。一番上まで上ると神倉神社のご神体であるゴトビキ岩がある。


神倉神社

熊野大神が熊野三山として祀られる以前に一番最初に降臨された聖地です。天ノ磐盾という峻崖の上にあり、熊野古道中の古道といわれる五百数十段の仰ぎ見るような自然石の石段を登りつめた所に御神体のゴトビキ岩があります。熊野速玉大社は、まだ社殿がない原始信仰、自然信仰時代の神倉山から、初めて真新しい社殿を麓に建てて神々を祀ったことから、この神倉神社に対して「新宮社」と呼ばれています。二月六日には、奇祭「お燈祭」が行われます。
熊野速玉大社公式サイト

おそらく縄文時代からこのゴトビキ岩は磐座として信仰の対象とされてきたのだろう。今はもうその信仰の精神を受け継ぐ人がいないせいだろうか、特に神聖な気配は感じられなかった。磐座信仰で思い出されるのは水と六の旅 ~ 三重・奈良(3)で書いた、岩尾神社の恐怖すら感じさせる迫力を持った十字岩のご神体。僕はあのときこう記した。
「磐座というものはその場にいる人の思いや存在そのものと呼応・共鳴してはじめてその神性が保たれるのではないか」
いろんな磐座を目にするたびに、この考えはどんどん確信に変わってきている。岩や自然のすべての物は人の思いに呼応し、磐座は信仰する人がいなくなればやがてその神性も失われ、ただの岩になることもあるのだと。そしてかつては日本中にあったであろう神性を持つ磐座や自然崇拝の対象も、現代はそのほとんどがただの“抜け殻”になっているように思える。人の思いや意識が物質に影響を与えるという事象は科学の世界でも確認されはじめている。20世紀以降、科学と宗教の境目がどんどん曖昧になってきている。量子論では人の意識が物質世界に作用しているという、かつての常識とはかけはなれた説が常識になり、その世界観は般若心経などの仏教の根本教理と非常に似通っている。そう言う意味では仏教もまた宗教と言うよりは、この世の構造を説明する“科学”に近かったと言える。根本教理を忘れ形骸化した多くの仏教系宗派は僕はどうも好きになれない。神社は好きだが寺には微塵も魅力を感じないのはそういう点も深く関係している。

そんな物思いにふけっていると長い階段を上る間にかいた汗が急速に冷えて寒くなってきた。今風邪をひいては困るので下りることにした。上りよりも下りるときが怖かった。もっとも勾配がきついところでは60度近くはあるんじゃないだろうか?写真では伝わらないと思うが、感覚的には階段というより崖に近い。そのうえ手すりもなにもない。転落したらただのケガでは済まなさそうだ。高所恐怖の人には辛いものがある。僕?僕は高所恐怖初段の業前なので余裕で半泣きでしたよ。

熊野那智大社

次は熊野三山の二社目となる、熊野那智大社。神倉神社からまた南へ20km下る。無料の高速道路が通じているのでそんなに時間はかからないはずが、降りるところを間違えて太地町まで行ってから一般道を引き返すことになり、かなり時間をロスしてしまった。途中の道の駅でもらった那智大社のパンフレットを読むと、熊野古道の原初の姿にもっとも近いまま残されているのがこの那智大社の大門坂とのこと。今日は時間が無いので大門坂を上ることはできないが、またゆっくり時間を取れるときに来て、自分の足で大門坂の苔むした石畳を踏みしめながら上りたいと思う。そのパンフレットで、大門坂の入り口近くに南方熊楠が粘菌の研究のために3年間滞在した旅館跡があることも知った。熊楠は那智の原生林の伐採計画があると聞いて大反対し、原生林の保護に奔走したとも聞く。熊楠は僕にとってもとても興味深い人物で、早くから仏教の本来の思想は西洋科学以上に高度な“東洋科学”であるということに気付いていたと思われる。“南方曼荼羅”と呼ばれている図など、熊楠の研究を追ってみると何か新しい発見がありそうな気がするので、このブログでもいずれ熊楠についての考察を書くことになるかもしれない。一番上のお土産屋の無料駐車場に車を停めた。その店で買い物をし、店の人に「このまま車を置いて参拝してきていいですか?」と聞くとOKとの返事だった。

車で那智大社の社殿まで来られるのだと思っていたら実はそうではなくここからまた長い階段上りが待っていた。後でネットで調べたら467段あったらしい。勾配はゆるやかなのでまだ良かったが、それでも神倉神社の後での467段はさすがにちょっとこたえた。雰囲気は悪くない。神気漂うという感じではなく、観光地としての楽しい雰囲気だ。

熊野那智大社

田辺市の熊野本宮大社、新宮市の熊野速玉大社とともに熊野三山の一社です。全国約4,000社ある熊野神社の御本社でもあり、日本第一大霊験所根本熊野三所権現として崇敬の厚い社です。古来当社はご祭神「熊野夫須美大神」の御神徳により「結宮(むすびのみや)」と称され、人の縁だけでなく諸々の願いを結ぶ宮として崇められました。那智御瀧は自然を尊び延命息災を祈る人が多く、また八咫烏の縁起によりお導きの神として交通・海上の安全の守護を祈り、さらに御神木の梛の木は無事息災をあらわすものとして崇められています。熊野の自然と共に神々の恵み深い御神徳のある神社であります。
熊野那智大社由緒

那智大社拝殿。ここも速玉大社同様に仏教色を強く感じる。僕の神社めぐりと関係するかといえば、多分関係しない。時計を見ると14時だった。少しゆっくりしすぎていたかもしれない。日が暮れる前に玉置山山頂までたどり着きたい。手短に参拝を終えて、少々早歩きで一旦車のあるお土産屋まで戻った。

しかしまだ那智の滝を見ていない。那智大社に来て滝を見ずに帰るなんてありえない。時計を気にしながら、お土産屋から10分ほど歩いて坂道を下ると、那智の滝をご神体とする飛瀧神社がある。

行きは急いでいたせいか気付かなかったが、あらためてこの飛瀧神社の鳥居の前に自分の足で立ってみると、ここには速玉大社や那智大社では感じられなかった神気が鳥居をくぐる前からすでに強く感じられた。そう!これだよ、僕が望んでいたのは。午後の日の光は杉の大木に遮られ、参道はかなり暗い。その参道を降りていくとしだいに轟音とともに輝く滝が現れた。こちら側が暗いからこそ日の光に照らされた滝が一段と光り輝いて神々しく見えた。これは人間が演出しようとしても不可能な、自然が作り出す美だ。ここにも確かに神がいると感じられた。この日、この時間に来られた事に感謝した。

通行料300円を払えばもっと滝の近くまで行けるらしい。今日は時間がなかったのでこれも次回来た時の楽しみにとっておくことにした。緑の濃い季節に大門坂から歩いて上り、時間を気にせず気の済むまでゆっくり那智の滝の気を全身で浴びたい。気持ちがいいだろうなぁ~。この飛瀧神社の鳥居から滝へも130段の階段がある。那智の滝を見られてまた元気になった僕はその130段を早足で一気に上った。

那智山を下り、一度新宮市まで戻ってから新宮川沿いの168号線を西に向かった。

熊野本宮大社

那智山から熊野本宮大社へは距離にして55kmの中距離ドライブとなる。やはり少しゆっくりしすぎていたようで、熊野本宮大社をちゃんと参拝するにはもう時間がなさ過ぎた。位置的には今回の旅の主目的である玉置山への道のちょうど途中にあるので、寄るだけ寄ってみる事にした。

熊野本宮大社

全国の「熊野神社」の総本宮にあたる熊野三山。三山の中でもとりわけ古式ゆかしい雰囲気を漂わせるのが、聖地熊野本宮大社です。熊野参詣道のなかでも、多くの人々がたどった「中辺路」を歩くと、難行苦行の道のりを終え最初にたどり着くのが熊野本宮大社です。最初に熊野本宮大社を望む「伏拝王子」の名は、やっとたどり着いた熊野大社を伏し拝んだ、との由来からと伝えられています。この熊野本宮大社は、平成7年には社殿が国の重要文化財に指定されました。本殿へと続く158段の石段の両脇には幟がなびき、生い茂る杉木立が悠久の歴史を感じさせます。
総門をくぐると檜皮葺の立派な社殿が姿をあらわします。向かって左手の社殿が夫須美大神(ふすみのおおかみ)・速玉大神(はやたまのおおかみ)の両神。中央は主神の家津美御子大神(けつみみこのおおかみ)。そして右手は天照大神(あまてらすおおみかみ)が祀られており、交通安全、大漁満足、家庭円満、夫婦和合、長寿の神として人々を迎え入れてきました。かつては、熊野川・音無川・岩田川の合流点にある「大斎原(おおゆのはら)」と呼ばれる中洲にありましたが、明治22年の洪水で多くが流出し、流出を免れた上四社3棟を明治24年(1891)に現在地に移築・遷座しました。
熊野本宮大社公式サイト

15:40頃に到着。参道前の大駐車場のほかに本殿近くにも小さな駐車場があったのでそちらに車を停めた。もし那智大社のように駐車場から拝殿まで時間がかかるようだったら諦めようと思っていたので助かった。熊野三山の中ではこの熊野本宮大社がもっとも日本の神社らしい雰囲気を漂わせていた。やはり僕の神社巡りと直接関係してくることは無さそうだが、観光としてまた来たときにはちゃんと参道を通って参拝してみたい。

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年越し熊野旅(2)~上っては下る熊野の神社めぐり~

2016年大晦日。熊野旅2日目。

平日は4時半起きの生活をしているせいで、休みであっても超早起き体質になってしまっている僕。この日も4時過ぎに目が覚めた。泊まったホテルは防犯上の理由で6時まで入り口が施錠され、外出ができない。時間が余ったら読もうと思って持ってきていた本は車の中だ。二度寝しようとしたが、すっかり目が覚めてしまってそれもできなかった。しかたなく面白くもないテレビを見て過ごした笑

6時になり、入り口が開くと同時にホテルスタッフに挨拶して外出した。空気がキンと冷えている。海岸で日の出を見ながら写真をパチパチ。金属製ボディのカメラはすぐに氷のように冷たくなり、それを触る手の熱もカメラに奪われて手の感覚がなくなってくる。手袋をするとカメラの操作ができないので、手をポケットに入れて暖めてはまた写真を撮る。この寒い中、波打ち際に立って釣りをしている人が何人かいた。釣りには詳しくないけど、何を釣っているんだろう?

左手に獅子岩。こういった岩はたいてい「言われてみればそう見えるかな~」程度の造形だが、これはパッと見で獅子が伏せている姿に見えるからすごい。エジプトのスフィンクスさながらに太陽が昇る方角を見つめている。

獅子岩
世界遺産、そして天然記念物及び名勝「獅子岩」は、地盤の隆起と海蝕現象によってうまれた高さ約25m、周囲約210mの奇岩です。昔から南側に位置する神仙洞の吽(うん)の岩(雌岩)に対して阿(あ)の岩(雄岩)と呼ばれ、井戸川上流に位置する大馬神社の狛犬として敬愛されていました。このため、大馬神社には今も狛犬が設置されていません。毎年8月17日に開催される「熊野大花火大会」では、多くのカメラマンが集まる絶好の撮影スポットとなります。
熊野市観光公社 獅子岩《世界遺産》

恵那と熊野を繋ぐ糸。その先へと繋がっていく糸。

昨晩、花のいわや亭を出てホテルに帰る際、ほんの目と鼻の先にある「花の窟神社」の前を通った。そのときは真っ暗で見た目にはなにもわからなかったがなぜか非常に気になって、朝日が差して明るくなったら朝食を食べるよりも前にこの花の窟神社に来ようと思っていた。神社はどこでも例外なく一日のうちで朝がもっとも神聖な気配が色濃く感じられる。朝に来れば、とても気持ちが良さそうな気がしたからだ。ホテルをチェックアウト後、さっそく花の窟神社へ。

鳥居をくぐって参道を歩いている時からすでにここが素晴らしい神社だということがわかった。本殿はなく、ご神体とされる岩を直接拝する形になっている。ご神体の岩のある空間に入るとすぐに、包み込まれるようなとても心地の良い感覚。すぐ脇の熊野街道を通っているはずの車の音も僕の耳には入らなくなり、ここは外界と隔離された、別の時間が流れている異世界のようだと感じた。ボキャブラリーが貧困で異世界としか表現できないのがもどかしい。白山中居神社平泉寺白山神社にも比肩しそうな、僕の神社めぐりで過去トップクラスの神気漂う空間。ここに居ろと言われれば何時間でもずっと居られる。それぐらい居心地が良かった。それと、この異世界感の中にかすかな異国の気配を感じた。東南アジアとかオセアニアとかそういった南の国の気配っぽいのだが、どこの国とはっきり言い切ることもできない。異国のものが置いてあるわけでもない。ここにあるのは普通の日本の植物と岩と石組み、そして神道様式の拝所のみだ。でもどういうわけか異国の情緒が確かにここでは感じられる。この空間を一歩でも出るとそのような異国の気配は感じられなくなる。

花の窟神社
花の窟は、神々の母である伊弉冊尊(イザナミノミコト)が火神・軻遇突智尊(カグツチノミコト)を産み、灼かれて亡くなった後に葬られた御陵です。平成16年7月に花の窟を含む「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産に登録されました。
花窟神社(花の窟神社)は日本書紀にも記されている日本最古の神社といわれており、古来からの聖地として今に続く信仰はあつく、全国から多くの参拝者がお越しになります。花の窟では年2回、例大祭を行います。神々に舞を奉納し、日本一長いともいわれております約170メートルの大綱を岩窟上45メートル程の高さの御神体から境内南隅の松の御神木にわたします。この「御綱掛け神事」は、太古の昔から行われており「三重県無形文化指定」されています。
世界遺産 花の窟

熊野市に来てからずっと感じていた居心地のよさの発信源はここだったんだとこの時確信した。そして恵那と熊野には一つの共通点があることに気が付いた。恵那という地名はイザナミが天照大神を生んだ時の胞衣(えな)に由来している。恵那神社の主祭神はイザナギ・イザナミの夫婦神。恵那と熊野にはイザナミという共通点があったのだ。どうも僕が心地良いとか異世界だと感じる神社にはイザナミがなにか関係しているらしい。

となると、白山中居神社と平泉寺白山神社の祭神は?
以前調べた気もするが忘れてしまっていた。さっそく改めて調べてみた。結果、もちろん平泉寺白山神社の祭神もイザナミ。白山中居神社の主祭神も、やはりイザナギ・イザナミの両神だった。ここまで一致すれば、偶然では片付けられない。

僕にとって恵那が心地よいのはただその土地が僕に合っているだけだと今までずっと思っていた。イザナミが関係しているとは今回熊野に来るまでまったく予想もしていなかったし、恵那には何度か行っているが恵那神社には一度も参拝したことがない。僕の神社めぐりのテーマを一言で表現するなら「縄文時代の人々の自然信仰(アニミズム)とその精神性を探求する旅」なのだが、イザナギ・イザナミもこれからここに絡んでくるのだろう。これからはイザナギ・イザナミを・・・特にイザナミの名を見たら積極的に追ってみようと思う。

次に向かったのは、花の窟神社から1kmほど離れたところにある、産田神社。花の窟神社はイザナミの墓所であり、産田神社はイザナミが軻遇突智尊を生んだ場所とされている。

杉の巨木があり長い歴史を感じさせる立派な神社ではあったが、花の窟神社のような特別な異世界感や神気はここでは特に感じられなかった。イザナミ繋がりであっても全ての神社が僕にとって居心地が良いわけではないということか。ちょっとだけがっかりしながら簡単に参拝を終えて帰ろうとした。その時、正月を迎えるため本殿の清掃をしていると思われる氏子らしきおじいさんが僕のほうを見たかと思うと、清掃の手を止めて手招きしてきた。何だ?本殿の前には白石が敷き詰められていて「ここから先は神域なので土足で白石を踏まないように」という旨の注意書きがあり、石を踏んで行って良いものかどうかと困惑していた。するとおじいさんはジェスチャーで「左のはじっこまで行ってぐるっと回ってこっちへこい」と示してきた。その指示に従って本殿の横まで行くと、おじいさんは地面にある石組みを指差し「これはひもろぎだよ」と言い、詳しく説明してくれた。

産田神社の神籬(ひもろぎ)
熊野市有田町産田神社の社殿の両側に直径一尺高さ五寸の丸石が並べられています。囲まれた中に五個が置かれ「ひもろぎ」跡と想像される場所があります。昔からここに落ちた枯葉など箒で掃くことなく手で取り去るようにきつく言い伝えられてきました。昭和三十五年の五月に考古学の権威の小野祖教(もとのり)国学院大学文学博士が熊野に来られ鑑定されました。その結果は約二千年前の祟神天皇「古事記や日本書記に記載」の時代の古代祭祀遺跡と判明しました。日本には東北地方に一ヶ所あるのみで、産田神社で二ヶ所目の発見であるとのことでした。この「ひもろぎ」は古代の社殿の無い時代に神をお迎えしてもてなす場所で神社の磐境(いわさかといい神の鎮座する区域)をしめすもので住民が永くたいせつに守ってきたのであろうとのことでした。

(産田神社由緒書きより)

ひもろぎをよく見るとうっすらとなにか文字のようなものが彫ってあるようにも見えるが風化しているらしく詳しいことはわからない。おじいさんが手招きしてこれを僕に見せてくれなければ僕は一生このひもろぎを目にすることも無ければ、心にとどめることさえ無かっただろう。たまたま大晦日に来て、おじいさんが正月前の清掃をしていたこと。その時、参拝客が僕一人だけだったこと。これらの条件が整わなければ見られなかったと思うと、縄文文化を追っている僕になにかの力が働いてこのひもろぎを見せてくれたのかな、などと思ったりする。もしもそうなら、僕のようなただの凡人にひもろぎを見せてどうしろというのだろう。日本に二ヶ所・・・もう一ヵ所である東北のひもろぎを探せば何かわかるのだろうか?僕の神社めぐりの旅ではいつも新しい土地へ行くたびに予想外の新しい発見があり、僕自身の意思を超えて次に訪れるべき場所がまるで自動的に示されるかのようであり、しかもその情報が次から次へと押し寄せるのでしっかりメモしていなければ忘れてしまいそうなほどだ。

「どこから来なさった?」
「愛知県からです」
「名古屋の人はここにもよく来るねぇ」
「そうなんですか。僕は神社を訪ね歩くのが好きで、今日はこれからいくつか神社をまわった後、玉置山で年越しする予定なんです」
「へぇ~そうなのかい。玉置山は昔は下から歩いて行くしかなかったが今は道も出来て上まで行けるようになったからね」

というような会話を軽く交わした後、おじいさんへお礼を言い、産田神社を後にした。ここからさらに山の奥の方に進んだところにある丹倉神社という、古代の磐座信仰の気配が感じられそうな神社にも行きたかったのだが、玉置山に行く時間がなくなるので、丹倉神社はまた次回熊野に来た時の楽しみとしておく。

熊野速玉大社

熊野市から速玉大社のある新宮市へは20kmの距離があり車で30分ほどかかる。海沿いを走るが、道と海の間に樹木があるので残念ながらオーシャンビュードライブとはならない。それと、これは多少気のせいもあるかもしれないが、熊野市から離れれば離れるほどなんだかあの居心地の良い空気感も薄れていくように思えた。おなかが減ってきたので店を探すが、直感が働かず「ここにしよう」と思える店がなかなか見つからなかった。道中にあった道の駅に寄ったがレストランは営業していなかった。速玉大社は大きな神社だからおかげ横丁的な何かもあるだろうと考え、とりあえずそのまま速玉大社まで行ってみる事にした。着いてみると、やはり熊野市とは違ってどこか冷めたような町の気配。正直、居心地は良くない。新宮市住民の方ごめんなさい。でもそう感じるのだから仕方がない。

速玉大社の駐車場に車を停め、近くの料理店に決めてそこに向かうと、ここも営業していなかった。段々どうでもよくなってきて、その店のはす向かいにあった喫茶店で朝食と昼食を兼ねてコーヒーとサンドイッチを注文した。僕以外に誰ひとり客は入ってこなかった。大晦日はこんなものなのだろうか。サンドイッチはおいしかった。

熊野速玉大社
熊野川の河口に位置する新宮の速玉大社。熊野三山(本宮・新宮・那智)の社務を統括する熊野別当の本拠が、この新宮の地におかれたこともあって新宮の速玉大社は特別の地位を占めるようになった。熊野別当は荒海をものともしない熊野水軍の統率者でもあり、平治の乱(1159)には平家方に、屋島・壇ノ浦の源平の決戦には源氏方につくなど、ときの権力を左右する力をもっていた。熊野川の流れを背にした千穂ケ峰の山すそ。鮮やかな朱塗りの大鳥居をくぐると、心が静まる空間がひろがっている。かつては「日本第一大霊験所、根本熊野権現」として紀州半島南部に広大な宗教王国を築いていた熊野権現速玉大社だ。熊野速玉大神を主神に、家津御子大神、夫須美大神の三神をまつる。社伝によると、以前は神倉山にまつられていた神々を景行天皇(71~130年)の時代にいまの場所にうつし、それが「新宮」の名のおこりになったという。「速玉」の社名の由来は、伊弉諾の唾の力を災いやけがれを払うまじないとしてあがめ、速玉男之神として神格化したという説、船の舳先で黒潮の怒濤を切り裂く水しぶきを聖なる飛沫として「速玉」と呼んだという説などさまざまだ。
新宮市観光協会

ここ速玉大社でも特にこれといって何か感ずるものはなかった。僕の神社めぐりとは無縁そうだったので、来た記念に写真だけ撮ってそそくさと退散することにした。速玉大社では、速玉大神は伊邪那岐神(イザナギ)と同一神だということになっているらしい。そうかなぁ。僕がこれまでに行ったイザナギをまつる神社と全然気配が違うんだけどなぁ、となにか釈然としない。どちらかと言うと仏教色を強く感じる。縄文人の信仰から弥生人の信仰、さらに仏教との融合という歴史の改変の中で、祭神がおかしな事になってきているだけだと勝手に予想してみる。
別に速玉大社を悪く言うつもりはないよ。祭神がどうであれ、観光名所として楽しければそれで良いといえば良い。ただ僕の神社めぐりとは直接は縁の無い社だなという気はした。車で次に向かう場所のナビの設定をしていると、後部の窓を誰かがコツンと叩いた気がした。ん?と思って振り向いても見ても誰もいない。しかしよく見ると、窓に何か白いものがついている。鳥のフン爆撃だった。
大人しく退散しようとしているのに、嫌な思い出まで残そうというのか速玉さんよ(#゚Д゚)プンスコと一瞬むっとしそうになったが、2017年は酉年である。トリのウンをもらったんだきっと。酉年は良いことがありそうだ。本当かよ。

このエントリのタイトル「上っては下る」の部分のさわりすらまだ書けていないが、長くなってきたので一旦ここで区切ることにしよう。

前:年越し熊野旅(1)~鬼ケ城と熊野灘~
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