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西日本駆け足神社めぐり旅(8)~神魂神社~

同じ松江市の神魂神社。祭神はイザナギ・イザナミ。神魂と書いて「カモス」と読みます。読めない。一説には古い日本語の神坐所(カミマスドコロ)のカミマスがなまってカモスとなったと言われています。

このあたりで長距離運転の疲れが出始めてだんだん写真の撮り方も適当になっていきます(笑)
先入観なしで神魂神社を訪れてみた感想としては、揖夜神社ほどではないもののやはり天候のせいもあってか侘しい、あるいは悲しいという印象を受けました。


本殿の横には杵築(きつき)社と伊勢社が並んでいます。杵築は出雲大社の古名であり、ここでは伊勢と出雲が同格とされていることが伺えます。


↑思いっきりピントがずれてますね。

旅から帰ったあとに色々調べてみました。この神魂神社のある場所には、もともとは出雲国造家の王宮があったとされています。神魂神社の本殿も本来は神社ではなく王宮中の邸宅の一つで、現在の出雲大社の「大社造」はこの「神魂造り」を真似て造られたとも言います。

もともとあった出雲国造家、とさらっと書きましたが、出雲の歴史は本を一冊や二冊読んだくらいでは全然理解が及ばないくらい複雑に絡み合っています。そもそも真実を書いた歴史書はどこにもなく(もちろん記紀も真実からは程遠い)、研究者によってもそれぞれ主張が異なるので、何が真実なのかはいくら調べたところで知りようがないです。と言ってしまうと話が終わってしまうので、僕の見解も少し書いておきます。もちろん間違っている可能性もあります。が、それが間違いかどうかもまた誰も確かめようが無いという。
これが、僕が神社を訪れる際に事前に余計な知識を持ちこみたくない理由でもあります。まずはその場で自分が肌でどう感じるか。その後詳しく調べて自分が得た感覚とすり合わせてみるというアプローチが重要であるような気がします。

さて、出雲国造家と言えば千家・北島家ですが、神魂神社の宮司を務めているのは秋上家です。秋上家の歴史を遡ると、その祖先は九州の物部氏に行き着きます。物部氏の東征の折に、その軍の一部は日本海側を通り、ここ松江市にあった東出雲王朝はこの軍に制圧されます。私見ですが、このときの物部氏による東出雲制圧は、一部で戦闘はあったかもしれませんが、比較的平和裏に行われたのではないかと。その証拠に、東出雲王家の末裔である富家は秋上家を好意的に見ており、神魂神社の宮司を秋上家に任せたのもそのためだと考えられます。
この時、物部氏を率いていたのが饒速日命(ニギハヤヒ)であり天神族です。「天孫族」と呼び方が似ているので混同されがちですが、全く別の一族。ネット上にも天神族と天孫族を混同していると思われる情報が多々あり、混乱に拍車をかけています。
饒速日命にしても、物部氏の王、実在の人間としての饒速日命と、神である天照国照彦天火明櫛玉饒速日命の2つの意味があります。

千家・北島家の祖先である天孫族=天穂日命の一族(穂日家)は、出雲国に対し非道の限りを尽くしてこれを滅ぼしたようで、富家は穂日家に対して強い怨みを抱いている(いた)ようです。これについては詳しく後述します。

ややこしいのでかんたんに時系列で整理しつつ僕のここまでの理解をまとめてみます。

出雲王家と物部氏の共生、それを滅ぼした天孫族

はじめに縄文時代から続く出雲王朝がありました。この時、日本各地にも小さな王族が散らばっていましたが、出雲王朝はその中でも最大規模だったと推測しています。そこへ饒速日命率いる物部氏が九州に誕生します。九州で勢力を拡大した物部氏は東征を開始し、出雲王朝を平和裏に制圧します。出雲王家がもともと争いを好まなかったのもあり、物部氏とともに新たな出雲王家として引き続き出雲を治めます。

饒速日命はそのまま東征を進め、今の京都あたりに行き着くと、当時そのあたりを治めていた長髄彦(ナガスネヒコ)にも出雲と同じように平和的制圧を試みます。このとき長髄彦は、物部氏の文化や技術の先進性にいたく感銘を受け、争うことなく饒速日命を受け入れたと言います。こうして長髄彦と饒速日命による大和の国が誕生します。

彼ら物部氏がいつどこからやってきたのかは謎ですが、朝鮮半島から渡って来た可能性が高そうです。饒速日命以前にも、その親である素戔嗚(スサノオ)の代から軍勢はやってきていましたが、出雲の平和的制圧に成功したのが饒速日命なのでしょう。素戔嗚の別名が「牛頭天王」であり、牛頭のルーツはイスラエルにあることから、物部氏=天神族=素戔嗚・饒速日命はいわゆる「イスラエルの失われた10支族」のひとつであり、朝鮮半島経由で九州に入ってきたと考えるのが自然に思えます。彼ら天神族が作った大和の伝承が、いまの祇園祭などにもユダヤ色として残されている理由として考えられます。
時代としては1世紀~2世紀頃でしょうか。

その次に来たのが、天穂日命=穂日家=天孫族です。彼らもまた同じく朝鮮半島から九州に入った集団ですが、その民族的ルーツはおそらく中国にあります。イスラエルをルーツとする饒速日命=物部氏=天神族とはまるで違い、非常に好戦的で野蛮、悪逆非道。卑怯な手を使うこともまるで厭わない人々でした。稲佐の浜に槍を突き立て「国を譲るか否か(イナかサか)」と迫ったのも彼らです。これが稲佐の浜の名前の由来ともなっています。
出雲王朝は天孫族に滅ぼされました。
また、大和を治めていた長髄彦と饒速日命も同じように天孫族に「国を譲る」ことになります。これが神武東征神話として今に伝わりますが、あくまで天孫族にとって都合の良いように史実が書き換えられている事は言うまでもありません。

歴史上のタブーを口伝で伝える生き証人

旧出雲王家・富家の直系の子孫である富當雄氏に直接インタビューした記録が「謎の出雲帝国」という本に書かれています。僕はこの本、実は数年前に読んだことがあります。まだ神社や神道に関心を持つずっと前です。当時時間が空いたので何気なく図書館に行き、たまたま目について手にとったのがこの本でした。冒頭からはじまる富當雄氏へのインタビューのくだりはなにか心の奥底に強く迫るものがあり、確証はもちろん無いものの、この話を真実だと思わせる不思議な神秘性を漂わせており、僕の脳裏にその印象が刻まれました。なおそのインタビューのくだりの後は、著者吉田大洋氏による考察にページの大部分が割かれていますが、この部分は僕にとって急速に光を失い、特に惹かれるものもなく、途中読みで棚に戻してしまいました。今回の旅の後あらためて図書館に行きすべて読みましたが同じ感想でしたね。富當雄氏へのインタビューの部分だけ不思議と真に迫りくるものを感じます。

本からインタビューのくだりを以下に引用します。

黒人作家が自分の祖先を約227年、アフリカまで遡った『ルーツ』が世界中の話題をさらっている。一方、日本には、4千年の歴史を伝える“語部(かたりべ)”がいまも存在しているという噂を聞いた。事実ならばその人は日本の“根”を知っているはず。

記者の前に現れたのは、意外にもモダンな老紳士だった。富當雄さん(67才)、元サンケイ新聞編集局次長。じつはこの人、出雲王朝4千年の歴史を継ぐ、大国主命直系の子孫だという。しかも古代王朝の史実を、先祖から代々、口づたえに伝承してきて、その詳細を全部、脳裏にきざみこんでいる。

カタリベ(語部)というものを、あなたは知っているだろうか?遠い上古、私たちの祖先が文字を知らなかったころ、氏族の歴史は“カタリベ”とよばれる人によって、記憶され、口から口へ語りつたえられてきた。日本の神話『古事記』は稗田阿礼(ひえだのあれ)というカタリベが物語ったものを、漢字で記録したもので、和銅5年(西暦712年)のこと。漢字が輸入されてから、カタリベの必要はなくなり、当然、そうした慣習も人も消え失せてしまった…と、誰もが思っていた。

ところが昭和の現代、なんと、4千年来の歴史を文字にせず、脳細胞の中に封じこめて生きている人がいたのだ。富さんのその生涯を決定づけたのは、いまから52年前、16才のときのことである。この年、彼は大分地方裁判所の判事だった父のもとを離れて、本家の富饒若さんの養嗣子になった。そして迎えた最初の冬、12月下旬のひどく寒い夜であったという。

「當雄、風呂場で身を清めてきなさい」

養父が命じた。いったい、なにがはじまるのか?
尋ねようと思ったが、養父がいつになく厳しい形相になっているので、声も出ずに、風呂場へはいった。全身を入念に洗い清めて、水をかぶってあがると、白い麻で織った衣服がそろえられていた。それは埴輪などで見たことのある古代服で、素肌にまとうと、麻のざらつく感触が、不意に彼の心を現世から引きはなすようだった。

養父に従って、ハダシで玄関へおりた。養母が祈りをこめる目で彼をみつめ、火打ち石を鋭く鳴らした。切り火で清められた彼と養父は、お供の下男がかかげる提灯(ちょうちん)のあかりをたよりに星も見えぬ藪の中の細い道をたどった。出雲大社の東、宇伽山のふもとにある出雲井神社まで約15分、一言も口をきかず、ただ一心に足を速めた。出雲井神社は、竹藪の中にひっそりと忘れられたように建っている4メートル四方ほどの小さな社だ。だが、ここには富家の遠つ神祖(かみおや)、久那戸(くなとの)大神が祀られている。久那戸大神は、日本列島を産み出したもうた伊奘諾、伊邪冊の大神の長男。つまり出雲王朝の始祖なのである。

社殿の階(きざはし)に、葦で編んだ敷きものがひろげてあった。中央には塩が盛られ、養父は左に、16才の彼は右に正座して相対した。下男は帰された。まっくらな闇の中に二人きり、簸川平野をふきぬける寒風がごうーっと竹藪をゆすってゆく。彼はガチガチと奥歯を鳴らし、息をつめていた。

・・・と、父が口をきった。

「これから語ることは、わしが言うのではない。神祖さまがおっしゃるのだ。心して聞け。そして、しっかり覚えよ。いずれ、おまえが子に伝えるまで、たとえ兄弟たりとも他言無用。いのちにかけて、これを守れ!」

父の声は、日ごろのものとは一変して、現世ではない遠い世界からひびいてくるかのようだった。その声を耳にした瞬間、彼の震えはぴたりと止まった。全身が緊張で熱くなり、脳髄が研きあげられたかと思うほど澄みきった。日本列島に人間が住みついたのは1万年前か、6、7千年前か、考古学の上ではそれすらはっきりしない。だが、富當雄さんは、4千年前から口誦伝承されてきた祖先の生きざまをこの夜から10年間にわたって、連続反復して、養父から聞かされたのだった。

それは、神と人とが対話する形式で語られた。質問はゆるされない。疑問を抱くなどはもってのほか。養父の言葉を、そのまま一語も洩らさず丸暗記するのである。彼の脳裏にきざみ込まれた出雲王朝から現代に至るまでの富家の歴史は、悲惨この上ない血みどろの物語だった。そして確かにこれは、他人には絶対に語れない内容であった。なぜならば出雲族は天孫族(天皇家の祖先)と長い闘争のあげく、帝位を奪いとられて、徹底的に滅亡の道へ追いやられたからだ。

その屈辱と怨念の歴史を、どうして天孫族の支配がつづく世の中で、口外できるだろうか。ただひたすら、親から子へ、子から孫へと語りつたえて、いつまでも忘れずにあれと願うほかはない。しかも、この伝承者に選ばれた者は、獣肉を口にできなくなる。また、自分の跡継ぎ以外は肉親であろうと“敵だ”と思わなければならなかった。いつの世でも、親類縁者がもっとも危険な敵となるからだ。

富さんは言う。

「私にとって、女房は他人です。娘が結婚して、もうじき孫が生まれますが、私は娘夫婦の家を訪ねたことがない。訪ねてはいかんのです」

記者は、この人が出雲大社の裏手、稲佐浜に立ったときのすさまじい表情を思い返した。夏は海水浴場として賑わうその浜は、神話の“国ゆずり”の場として有名だ。天孫族の大軍団から使者として来た武甕槌命(たけみかづちのみこと)が、この砂浜にホコをつき立て、「否(いな)、然(さ)」(イエスかノーか?)と迫り、この談判で出雲大帝国の王、大国主命は降服を決意したという。

富さんは、旅館の番傘を手にして、雨けむる浜辺に立った。すると、それまで柔和だった顔が、見る間に紅潮して、眉がつりあがった。

「ここへ来ると、血が逆流する。2千年前、ここで私の祖先がッ・・・」

うめく声がふるえ、語尾が口の中で炸裂した。この瞬間、富さんは時間も空間も躍り越えて、まちがいもなくタイムトンネルの中へ突入したようだった。

「私の先祖は、侵略者の目の前で、抗議の自殺をしたんだ。ここでだ、ここで!」

社会のはげしい動きを追って、それを文章にする新聞記者であり、局次長にまでなった富さんは、つまり活字文化の先端を歩んでいたわけだ。それなのに、なぜ伝承したものを文章化しないのか。

「文字は、ただの記号です。本当の感情を伝えることができるものは肉声しかない。しかも文章にして残せば、敵方に奪われ、迫害され、その記録を焼かれ、書きかえられてしまうおそれがある」

彼の情熱の源泉は、つねに「おれは滅亡させられた王者の末裔だ」と思うことにあった。大国主命から出雲の国を奪った天孫族は、大国主命の血筋を完全に寝絶やしにするため、どれほど苛酷な迫害をくり返したことか。簸川郡富村に、富家の先祖を祀った富神社がある。その紋章は、亀甲のなかに大根が2本、交差した図柄だ。荒れ果てたその社殿の前で、富さんは大根の紋章を見つめた。

「うちの紋章は、亀甲の中にホコが2本、交差したものだったのです。それを貞観2年といいますから、平安時代に大根に変えさせられたんですよ、ときの権力者にね。ホコは王権の象徴ですから」

紋章ばかりではない。富という性まで変えさせられた時代がある。大社の町の旧家では、富さんのことを、「向(むかい)さん」と呼ぶ。平安時代から明治維新まで、富になったり向になったり、合計11回も家名を変えたものだという。

「敵の力が強いときは、向になるんです。情勢がよくなれば誇りをもって富に戻す機をうかがって、流れに逆らわずに生きる。これが出雲人なんですよ」

先祖の中には、毒殺された者が数名。つい数代前の当主は、迫害から身を守るために狂人のまねをした。

富氏の口伝が一字一句違わず2000年間伝えられているとは思いません。歴代の後継者の中には口伝を一部忘れてしまい、記紀から引用する形でそこを補い、それが現代に残されている可能性のほうが高いでしょうね。とは言え、天孫族による出雲への非道と虐殺の歴史まで疑う理由はありません。

思い出されるのは2014年5月。奇しくも僕が神社めぐりを始めたのと同じ年、同じ月ですが、皇室の高円宮典子女王殿下と出雲国造家の千家国麿氏のご婚約が宮内庁から発表されました。ある意味で対極とも言える皇室と出雲国造家の縁組みは日本の歴史上の一大ターニングポイントだとして日本史マニアの間で騒がれたのは記憶に新しいです。またその前年、2013年には史上初めて伊勢神宮と出雲大社の遷宮が重なるという、いわゆる「平成の大遷宮」もありましたね。

ただ、出雲国詳細系図によると、先述したように出雲国造家(千家氏)は天穂日命(アメノホヒ)の子孫であり、天皇家は天之忍穂耳尊(アメノオシホミミ)の子孫。どちらも天照大神の子です。と考えると、そこまで「対極」ではないようにも思えます。なにか意図的に出雲と伊勢の接近を「演出」された感が無きにしもあらず・・・。と思うのは僕だけでしょうか。
出雲国詳細系図(※PDF)http://www.harimaya.com/o_kamon1/syake/cg/izumo_kz.pdf

西日本駆け足神社めぐり旅(7)~揖夜神社~

赤岩神社から車で1時間弱。島根県松江市にある揖夜神社に来ました。

2014年からはじめた神社めぐりの経験上、イザナミに関係する神社や土地が僕にとって特に居心地が良いと感じます。
暖かくてやわらかで、女性的な優しさがあるように思うのです。
恵那や花窟神社、平泉寺白山神社の御手洗池などなど……

そしてこの揖夜神社に来たかった理由も、祭神がイザナミだからというそれだけの理由です。
先入観を持ちたくなかったのでそれ以上の情報はあえて調べずに来ました。
そして実際に揖夜神社に来てみて受けた印象はと言うと、「侘しい」という言葉が一番しっくり来ました。

侘しい
[形][文]わび・し[シク]
1 ひどくもの静かでさびしい。「人里離れた―・い田舎」
2 心が慰められないさま。心細い。「ひとり―・く夕食をとる」「―・い下宿生活」
3 貧しくてあわれなさま。みすぼらしい。「―・い住居」
4 つらく悲しい。やるせない。「苦しく心もとなければ、…いと―・し」〈土佐〉
5 当惑するさま。やりきれない。「あな―・し。人の有りける所をと思ふに」〈今昔・二七・一五〉
6 興ざめである。おもしろくない。
コトバンク

この時の、朝以上にいっそう暗い灰色の雲に覆われた天候がそう感じさせた一因であろう事も否めません。もし晴れていたらもう少し違った感じ方をしたかもしれませんが、神社ではその時の天候も神意の現れだと言いますし、僕もそう思います。いずれにしても、イザナミを祀る神社でこのような感じ方をするとは自分でも意外でした。

しかし、参拝した後に神社の案内を読み、この神社の近くに「黄泉比良坂」という場所があることを知り、そこを訪れたとき、この「侘しさ」について合点が行きました。

黄泉比良坂
黄泉比良坂(よもつひらさか)とは日本神話において、生者の住む現世と死者の住む他界(黄泉)との境目にあるとされる坂、または境界場所。(中略)島根県松江市東出雲町は、黄泉比良坂があった場所として、1940年に「神蹟黄泉比良坂伊賦夜坂伝説地」の石碑を同町揖屋に建立した。同地には、千引の岩とされる巨石も置いてある。近くには、イザナミを祀る揖夜神社もある。
wikipedia – 黄泉比良坂

つまり、イザナミはイザナミでも、この揖夜神社は黄泉の国(死後の国)へと旅立ったあとのイザナミを祀る神社であり、夫であるイザナギの事を想いつつも二度と帰ることはできないイザナミの気持ちはどんなであったか。その揖夜神社から「侘しさ」を感じ取ったとしたら、それはむしろ自然な事だと言えると思います。

ちなみに、黄泉比良坂の「坂」は「境界」を意味するきわめて古い日本語の発音「サ音+カ音」から転じたものと推測できます。この世とあの世をつなぐ境目としてのサカですね。

黄泉比良坂。上に写っている案内には「伊賦夜坂」と書いてありますが違いは詳しく調べていないのでよくわかりません。
先に進むと賽の神(道祖神)がありました。小さな石組みです。ちょうどその賽の神あたりで、地元の人と思われる一人のおじいさんとすれ違いました。僕からは何も話しかけていませんが、おじいさんは当たり前のように立ち止まって僕に話しかけてこられ、このあたりの伝承についていろいろ教えてくれました。
別れ際、「これから出雲大社に行こうと思っています」と言うと、こんな事を言っていました。

「では稲佐の浜に行くといいですよ」
「出雲の国に、海から来た天孫族の大軍が浜に降り、槍を突き立てて、大国主命に『国を譲るか否か(イナかサか)』と迫ったその場所です」

結果から書くと稲佐の浜には行こうにも行けませんでした。理由は続きで。