水と六の旅 ~ 三重・奈良(1)

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5月3日。GW休みを利用して関西方面へ小旅行に出かけました。三重や奈良、大阪、兵庫(六甲)に点在する神社や磐座(いわくら)を見てまわりたかったのです。出掛ける前、今回の旅のテーマをフィーリングで「水と六の旅」としました。近頃日を追うごとに六という数字と、水、そして竜(水神)が僕と縁深いような気がしてきているので。

ただ、西に行くのは心理的に軽い抵抗感があって。僕は西(京都方面)に行くとどういうわけか気分が落ちて、悲しいような切ないようななんとも言えない気持ちになるという謎の属性があります。

このことに気が付いたのはつい2年ほど前。それまでは京都は単に人が多いから疲れただけだと思っていました。しかし関東方面に行った時の精神的な疲れとはどうも種類が違い、もっと根源的なところからやってくるもののような気がするのです。時には晴れた日に行っても気分的に空がどんより曇っているようにも感じたりするのですが、東に行った時は特にそんな感じ方はしません。自分でも理由はわかりません。これを仮に「西方よわよわ属性」とでも呼ぶ事にします(笑)
今回の旅では、その属性が発動する地理的境目がどのあたりにあるのかもついでに確かめてみようと思いました。

午前3:00に起床。事前準備がいいかげんだったので準備に手間取って予定より少し遅い4:30に家を出発。僕には毎度の事ですが。
5月ともなるとこの時間ですでに空はかなり明るいです。

椿大神社

愛知県から関西方面へ向かう場合、通常は1号線か23号線を使うのですが、三重県四日市市あたりは普通の休日でも渋滞しています。GWともなるとどれだけ混んでいるか予測がつきません。たとえ早朝と言えども大渋滞に巻き込まれる可能性も十分あるので、今回は内陸寄りの迂回ルートを取ることにしました。事前にそのルートを調べていた時、椿大神社(つばきおおかみやしろ)という大きな神社があることを知りました。三が日の参拝者数で県内三位という、かなり有名な神社のようです。「つばきさん」と呼ばれて親しまれているそうです。これも縁だと思い、寄って行くことにしました。

少し離れたところにある駐車場に車を止めて神社に向かっていると、緑茶の良い香りが…。製茶工場があるみたいです。

DSC_0112椿大神社の参道

椿大神社の主祭神は猿田彦大神。みちびきの神。別宮である椿岸神社の主祭神は天之鈿女命で、猿田彦大神とは夫婦です。その印象があるせいか、椿大神社はあったかい感じがしました。自然も豊かで、鳥の声や境内にある滝から響いてくる水音も心を癒してくれます。朝早いとはいえGWなのに、人もほとんどいません。幸先良くこんないい神社を知ることができてうれしいな~。

DSC_0118別宮椿岸神社

椿大神社をあとにした僕は、良い気分で次の目的地にナビを設定して出発。
すると一匹のやせた犬が道の脇にいました。首輪もないし、野良犬なのかな。とてもおびえた目で僕のほうを見ています。少し近付いて見ると、震えています。虐待されたか捨てられたかで人間が怖いんだなと悟りました。車を発進させつつバックミラーで様子を観察していると・・・今度は「行かないで」という目でしっかりとこちらを見ています。言葉が話せなくても目で犬の気持ちがわかったんです。少しバックするとまたおびえて物陰に隠れます。でもすぐまた同じ目でこちらを見つめてきます。飼うこともできないので、心を鬼にして立ち去るしかありませんでした。
動物を捨てる無責任な人がいない世の中にしたい・・・。

直後にそれまで晴れていた空に黒い雲がさしかかって今にも雨が降り出しそうな天気に。
まるで僕の気分そのもの。

忘れられた磐座

次に向かったのは、神社の世紀というブログ記事で読んだ、伊賀市にあるという磐座。

記事を読むとわかりますが、この方はすごいです。地元の人でも知らず、わずかな資料にも間違った地図が掲載されていたほどのいわば“忘れられた磐座”を、フィールドワークによって自力で見つけだしたのですから。この磐座を僕もぜひ自分の目で見てみたくなり、行ってみることにしました。

名阪国道を使い、椿岸神社から小一時間も走ると伊賀市に入ります。伊賀市は忍者の里として有名ですね。松尾芭蕉の出生地ということで、芭蕉は実は忍者だったという説もあります(本当かどうかは知りません)。国道を降りてさらに車を走らせると、やがて広い畑と森ばかりの土地にやってきました。

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ここには駐車場などもちろんありません。適当に広い場所を見つけて車を停め、ドアを開けた瞬間、芳しい良い香り・・・ではなく畑のこやしの強烈な匂いが鼻をつきました(; -y-)

牛糞だろうか。一旦慣れてしまえばそれほど気にはならない匂いですが、よそからやってきた者には一息目は「うっ」となりますね。雨雲はどこかに流れていき、また太陽が雲間から時折顔を出している。気温も上がり、暑いです。

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神社の世紀の情報を頼りに、磐座までてくてく歩く。
この日まで長い間雨が降らなかったようで、土がサラサラに乾燥していて歩を進めるたび砂埃が舞い上がります。

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歩くの大好き byトトロ

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本当にこの先に?だんだん不安になってくるw

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道なのかどうかもよくわからない鬱蒼とした森に入っていきます。写真で見ている限りではそうでもないのですが、現地にいると何かが木陰に潜んでいるような雰囲気があり、不安を通り越してだんだん怖くなってきます。実際イノシシあたりはいつ出てきてもおかしくなさそうな里山なのですが。「場所間違ってないよな・・・?」と時折確認しながらさらに進みます。あるところから一面枯れ葉の絨毯となっている丘をあがっていくと・・・。

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あった。だ円形に配置された石群。その中心に太陽光がスポットライトのように差し込み、まわりは枯れ葉なのに石群のなかだけ緑の草が生えていて、そのせいもあってか現実離れした雰囲気があたりに漂っています。

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後から写真を見て初めて気付いたのですが、磐座の上部に水平に白いラインが入っています。

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別角度から。色は薄いですが、やはり白い水平ラインがはっきり見てとれます。神社の世紀の記事中ではこのラインの存在は指摘されていませんでした。あちらに掲載されている写真を見ると、当時ちょうどこのラインの位置に注連縄がかけられていたために気付きにくかったと思われます。現在は注連縄はなく、ラインがわかります。このラインは、僕の考えでは、男性器を模したシンボルとして描かれているのではないかという気がします。なぜかと言えば、実物の男性器をイメージすればわかるかと思います。古代の信仰では人の性器が信仰におけるシンボルとされる事は多くありました。そして、このシンボライズの場合、女性はというと「中心を貫く縦のライン」となるはずです。ここの磐座には縦のラインを持つ石はないようですが、ググると全国に数多く存在する事がわかります。

上部に水平のライン、真ん中に縦のライン。この二つを組み合わせるとラテン十字になり、キリスト教における十字架となります(十字架はいくつか種類があり、下方に長いものをラテン十字と呼ぶ)。

ラテン十字は、イエス・キリストの磔になった姿をシンボライズしたものではありません。ラテン十字の起源はイエス生誕よりもはるかに古く、起源には諸説ありますが実際のところはよくわかっていないようです。僕は、男性と女性を合わせた言わば両性具有をシンボライズしたものが、十字信仰の起源なのではないかと直感しました。それはこの後に行った奈良県のある磐座を見て思い到ったわけですが、その話は(2)以降に書きます。

古代の人類はどういう気持ちでこれらの磐座を作ったのでしょうか。現代人はこういう話をすること自体、恥ずかしいという気持ちが先に立ちます。この恥ずかしいという感情のもとになった価値観は、物質経済主義の近代西洋由来のものです。性のシンボライズが恥ずべきものという観方は、僕が常々思う「本物の神は隠されている」という思いにも繋がります。人間本来の正しい道に逆行するものが現代では正しい道であり信じるべき道とされているとも言えます。

もし人が死にあたる罪を犯して殺され、あなたがそれを木の上に架ける時は、翌朝までにその死体を木の上に留めておいてはならない。必ずそれをその日のうちに埋めなければならない。木にかけられた者は神に呪われた者だからである。あなたの神、主が嗣業として賜る地を汚してはならない。
(申命記 21章 21節)

ここに知恵が必要である。思慮のある者は、獣の数字を解くがよい。その数字とは、人間をさすものである。そして、その数字は666である。
(ヨハネの黙示録 13章 18節)

八岐大蛇を始め、悪の神々様祀りくれよ、心して結構に祀り始め下されよ。このこと役員のみ心得よ、岩戸開く一つの鍵ざぞ。
(日月神示 第十九巻 まつりの巻 第二十二帖)

岩戸。
いは・と。
一八・十。
一八は六六六。(18=6×3)
平成の「平」の字もまた一八十で表せます。
平成の世、六六六でじゆう(十)と成る。と読み解くこともできます。

再び日月神示から引用。

今度は根本の天の御先祖様の御霊統と根元のお地(つち)の御先祖様の御霊統とが一つになりなされて、スメラ神国とユツタ(ユダヤ)神国と一つになりなされて末代動かん光の世と、影ない光の世と致すのぢゃ、今の臣民には見当とれん光の世とするのぢゃ、光りて輝く御代ぞ楽しけれく。(中略)目に見える世界ばかり、理屈でよくしようとて出来はせんぞ、それ位 判って居らうが、判りて居り乍ら他に道ないと、仕方ないと手つけずにゐるが、悪に魅入られてゐるのぢゃぞ、悪は改心早いぞ、悪神も助けなならんぞ、霊(たま)から改心させなならんぞ、善も悪も一つぢゃ、霊も身も一つぢゃ、天地(アメツチ)ぢゃとくどう知らしてあろが。何んなよいこと喜ばして知らしても、聞かせても、今の臣民人民 中々云ふこときかんものぢゃぞ。この道にゆかりある者だけで型出せよ、カタでよいのぢゃぞ。六月三十日、ひつぐの神。
(日月神示 第十八巻 光の巻 第六帖)

聖典や、自動書記によって書かれたとされるいくつかの書物には重要な示唆を与えてくれるものが数々あります。その中でも特にこの日月神示は、僕は初めて知った時から人が書いたものではないと直感し、また一生読み続けるものになると強く感じています。まだ意味がわからない箇所ばかりなのは僕が未熟だから読めないという事でしょう。

僕は広汎性発達障害=アスペルガー症候群と診断されているいわゆる障害者ですが、広汎性発達障害(pervasive developmental disorders)を略すとpdd。これを紙に書いて裏から透かして読むと「666」に見えます。

ついでにこの日の帰り道での話。奈良からずーっと一台の車が僕の前を走り続けていました。「どこまで一緒なんだ?」とだんだんその車のことが気になりだし、信号待ち中にふとナンバープレートを見ると・・・。

(2)へ続く。


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